松平郷周辺FW -7-
令和6年5月5日、いつものメンバー(積知積徳会)で、松平郷周辺へFW(フィールド・ワーク)に行ってきました。その様子を数回にわたってお知らせしています。
今回の訪問地です。
第7回 松平郷園地 です。
説明です。
親氏の公願文の碑です。
松平郷園地です。
松平八代を象徴する七対の「石柱」です。
松平親氏公の像です。
像の碑文です。
作者は長江録弥(ナガエロクヤ)
ギリシャ彫刻を得意にしたそうで、この像も、なんとなく西洋風です。
これは誰の像だと思いますか?長江録弥作です。
https://www.kobijutsu.ne.jp/products/detail/98
徳川家康です。服装が、親氏と似ています。
親氏は何者?
清和天皇系の源氏ということになっています。系図を追いましょう。
「太宰大弐経基」、すなわち「源 経基」が清和源氏の祖です。
満仲からは、長男 頼光が摂津源氏。土蜘蛛で有名です。次男 頼親が大和源氏。三男 頼信が河内源氏で、家康につながります。
頼義の三男が甲斐源氏の祖 源 義光です。ここから、武田、佐竹、小笠原 が出ています。
義家が、後三年の役をおこした、八幡太郎 義家です。
義家の次男 義親のひ孫が頼朝です。この系統からは、大友や島津につながると思います。
義国の次男、義康は足利の祖です。畠山、𠮷良、今川、斯波、細川、二木、戸ヶ崎などが出ます。
義国の嫡男が義重で、新田氏の祖です。
義重の四男 義季が新田 義季 & 得川 義季 & 世良田 義季 で、家康の祖先につながります。
ここから後は、幕府編纂物である『三河物語』と、「松平氏由諸書」(『松平村誌』)に書かれていますが、内容はやや異なります。
幕府に都合よく書かれた『三河物語』よりは、個人的には「松平氏由諸書」(『松平村誌』)が近いと思います。『三河物語』では時宗の僧侶ですが、「松平氏由諸書」では一人の旅人として描かれます。この頃の旅人とは、芸を売りながら渡り歩く人です。あるサイトでは次のように書かれています。
松平郷の信重らが連歌興行している場に一人の流れ者があらわれ、筆役をうまくつとめたという。これが徳翁斎信武で、信重がしばらく屋敷にとどめた。信重は旅に出ようとする徳翁斎に、自分には子供が二人あり、姉の海女は当国酒井というところに縁付き、妹水女がまだ独身でいるので婿になってほしいと申し入れた。すると、徳翁斎は八橋にいる弟祐金斎の面倒をみてもらいたいとの条件を出した。信重は承諾し、水女と徳翁斎の縁談が決まった。 出典 https://mikawa-komachi.jp/history/matsudairachikauji.html
親氏以降は事実だと思うのですが、それ以前は?
個人的には、源氏の新田氏につながるように、家康が系図を操作したのではないかと思っています。
祖父・清康も同様の思いがあり、「世良田次郎三郎清康」を名のっていました。
これらに関するエピソードはいろいろありますが、今後の研究が待たれるところです。
三河には本物の源氏がたくさんいます。吉良町で調査をしたときに、それに類する資料を見た気がするのですが、記憶が定かではありません。
官職を得るためには権威付けが必要で、系図を直すことは他にもあります。
動画です。
徳川家康の祖先「松平親氏」のヤバすぎ伝説
現代語訳 三河物語 01徳川家の先祖と大久保一族 その2、初代親氏、西三河松平郷に興る
明日へ続きます。
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