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5月8日は新聞休刊日

2017-05-08 05:00:15 | 社説を読む
今日は新聞休刊日なので、昨日のコラムを紹介します。

朝日新聞
・ 京都盆地の南西にある乙訓(おとくに)地域はタケノコの名産地である。孟宗竹(もうそうちく)の盛りが過ぎ、これから淡竹(はちく)、ついで真竹(まだけ)へ旬が移る。京都府向日(むこう)市で竹林を営む田中益一(ますかず)さん(62)を訪ね、掘り方を教わった

▼土から顔を出したものには手をつけない。のどを刺すログイン前の続き「えぐみ」があるからだ。地割れや隆起をたよりにスッとくわを土に刺す。身を傷つけぬよう地下茎の筋を読み、素手でやさしく掘り起こす。〈発掘の石仏に似て春筍〉村上喜代子

▼「子ども時分に覚えた人は手際がいい。バイオリンの稽古に似ています」と田中さん。いまは祖父や父から教わった知恵を、高校生の息子さんに伝えている最中という

▼田中さん宅で孟宗竹の水煮をいただいた。身がとろけるほど軟らかく、まろやかである。流通量は少ないものの、淡竹は苦みがあってパリパリした食感が通に好まれる。真竹も苦いが、軟らかみは孟宗に近いそうだ

▼一帯は長く竹産業で栄えた。かつて竹材は、桶(おけ)や樽(たる)の製造、建築現場はもちろん、のりの養殖のさおや、衣類のボタンにも使われた。近年は需要が細り、花器や茶器、門松など工芸品が軸と聞く

▼「いまは昔、竹取の翁といふもの有けり。野山にまじりて竹を取りつゝ、よろづの事に使ひけり」(竹取物語)。長きにわたり生活全般「よろづの事」を支えてきた竹の万能性に思いを致す。もっぱら春先にかぶりつくばかりで、竹やぶに足を向けない現代人の暮らしぶりを知ったら、竹取の翁も嘆くことだろう。竹な忘れそ。


毎日新聞
・春と初夏の風物詩である潮干狩りは江戸時代、すでに庶民の娯楽として定着していた。江戸の年中行事を記した「東都歳事記」は品川沖などを名所に挙げている。北斎の肉筆画「潮干狩図」には貝取りに興じる人々の様子が生き生きと描かれている

▲当時は舟で沖に出て潮が引くのを待ち、海底が見えると下りて貝を拾う方法だったようだ。ヒラメも一緒にとれたというのだから、江戸前の海は豊かだった

▲その潮干狩り、主役のアサリが足りず狩り場が閉鎖されるケースが近年は目立つ。愛知県は今年、35会場のうち15会場で開設を見送った。静岡県・浜名湖は有料の渡し舟を使う潮干狩りが2年続きで中止となった

▲国の統計によると全国のアサリ漁獲量は最盛期は年間16万トンもあった。それが減り続け、一昨年から昨年にかけて約1万4000トンから約8500トンに急落した。干潟の減少や取りすぎ、天敵による食害など地域ごとにさまざまな要因があるとみられる

▲そこで、アサリを守ろうとする試みが各地で広がりつつある。浜名湖では砂利を入れた網袋を湖底に沈め、幼生を保護しようと取り組んでいる。保護ネットでアサリの復活を目指す和歌山・片男波干潟では今春、9年ぶりの潮干狩りが1日限定で試験的に行われた

▲大人もつい熱中してしまう、宝探しのような楽しさがある潮干狩りだ。一説によると、アサリの語源は「漁(あさ)る」が転化したものだという。あさるだけではなく、貴重な海の幸であることも忘れずにいたい。


日本経済新聞
・一見、アートのようである。東京は中野の宝仙寺や、さらに西の小金井神社に立つ石臼を供養する塚だ。何十台もが小山のように積み上げてある。明治時代までどの農家にもあった家財らしい。しかし、小麦粉や米粉が容易に店で買えるようになり、使われなくなった。

▼民俗学者の小川直之さんによると、江戸期の文献は石臼を「所帯道具の内、第一重宝なるもの」と評す。ひかれた粉は下部と上部のすき間から自然に出てくる仕組みだった。加えて、摩擦熱が高まらない利点もあった。家族の食生活を下支えした必需品である。用済みとなった後も寺社で祈りの対象とされたゆえんだろう。

▼民話では石臼が富の源泉としても扱われた。「海の水はなぜからい?」などの題で北欧や日本に伝わる。貧しい弟が小人からまんじゅうと引き換えに何でも出てくる不思議な臼をもらった。弟は米や家を出して一夜で長者になる。金持ちでケチな兄が知って恨むまいことか。兄は臼を盗み、船に甘い物も積んで海へ逃げた。

▼途中、塩を欲し「出ろ」と臼を回すが、止め方を知らない。重さで船は沈み、臼は今も海底で塩を出し続けている……。保護主義的言動で利を独り占めしようとしたり、「核心」や「1強」の名の下に権力を集中させたりしては、思わぬ結末が待つ恐れもある。語呂合わせでコナモンの日。「強欲」への自戒、お忘れなく。


産経新聞
・ 洋上から望むこの島は、司馬遼太郎の目に「巨大な岩礁」と見えた。切り立つ崖は岩肌を真下の海に落とし、周囲にひらめく白い潮(うしお)は、島がよって立つ絶海を難所に変えた。九州本土からは約60キロ、玄界灘に浮かぶ沖ノ島(福岡県宗像市)である。

 ▼日本から遠く朝鮮半島や大陸を目指した先人にとり、島から先の無事は神頼みだったろう。福岡県出身の作家で写真家、藤原新也さんが書いている。「とりつく島もない、茫洋(ぼうよう)とした海の彼方に現れた“とりつく島”であり、すなわちそれは神そのものなのである」(小学館『神の島 沖ノ島』)。

 ▼またの名を「不言島(おいわずじま)」とも呼ぶ。島での見聞は口外無用、一木一草の持ち出しもならない。不浄の持ち込みもご法度で、上陸の際は裸体を海で清めるという。宗像大社の「沖津宮(おきつみや)」として島そのものが崇拝されてきた神体島である。

 ▼絶海と禁忌が守り続けたのは、神国思想の足跡かもしれない。昭和29年から46年にかけての調査で発掘された4~9世紀の舶載品や遺構は、航路の安全を願う国家的祭祀(さいし)の変遷などを物語って、貴重だという。沖ノ島が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録される運びとなった。

 ▼島は海路の要衝であり防壁でもあった。元寇では神風が蒙古軍を本土から遠ざけ、司馬も描いた日露戦争では、連合艦隊がロシア艦隊を退けた日本海海戦も同島の近海を舞台とした。今日の繁栄は「神宿る島」のご加護でもあろう。

 ▼余談ながら宗像大社の手水(ちょうず)鉢には「洗心」と刻まれている。沖ノ島の調査を主導した出光興産創業者、出光佐三の揮毫(きごう)である。自らの足跡をたたえた記念碑建立の話を蹴り、ひそかに手跡を残したらしい。そんな先人の陰徳にも光が当たるといい。

中日新聞
・ 神罰など「年寄りの大うそ」と考えていたある少年、お稲荷さまの社に忍びこみ、ご神体を暴いてしまう

▼中にあったのは石だった。少年はこれをうち捨て、別の石に取り換えてしまう。もちろん、何も知らぬ人たちはその後もお稲荷さまを大切にする。「馬鹿め、乃公(おれ)の入れて置いた石に御神酒(おみき)を上げて拝んでるとは面白い」。とんだ悪坊主(ぼうず)は、少年時代の福沢諭吉である

▼非科学的な迷信や神罰に疑いの目を向けるのは学問の一歩かもしれぬが、この島ばかりは福沢少年から遠ざけておきたい。福岡県宗像市沖約六十キロの玄界灘にある沖ノ島である。世界遺産への登録勧告をユネスコの諮問機関から受けた

▼島全体がご神体であるがゆえ、厳格な禁忌によって守られてきた。女人禁制。神職でさえ上陸前には海で禊(みそぎ)をしなければならぬ。島から一木一草一石たりとも持ち出すことは許されぬ。「おいわずさま」とは島で見たことを口外してはならぬというしきたりという。そこまでして守り続けた祭祀(さいし)の場である

▼世界遺産といえば、観光資源や経済効果が注目されるが、本来の目的は遺産の保護と保全である。登録勧告で島への関心が高まるのは自然なこととはいえ、禁忌を無視した上陸などで島を傷つけるようなことがあってはならぬ

▼非科学的とおっしゃるか。されど、そのおかげで神の宿る島は守られ、世界の遺産となる。

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