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職場旅行(7) 吉良邸跡

2013-02-11 06:52:23 | 取材・旅行
職場旅行(7) 吉良邸跡

両国駅で降りて南へ歩きました。

「芥川龍之介生育の地」とありました。



生後7ヶ月から大学に入学するまでを過ごした文豪芥川龍之介生育の地として、生育の地碑が建てられています。

両国小学校の角にある芥川龍之介文学碑です。短編「杜子春」の一節が刻まれています。



吉良邸正門跡はこのあたりにありました。

両国小学校の西の道を南に少し下ったところです。





吉良家上屋敷は、東西73間(134m)、南北は34間(63m)、坪数2,550坪。

ここが吉良上野介義央公の上屋敷跡です。かつては松坂町と呼ばれていたので、本所松坂公園といいます。



 

屋敷の北辺になります。下の図の黒い一角です。 



入り口です。



公園の北西角には、義央公の「首洗い井戸」があります。







吉良家の菩提寺である華蔵寺と、義央公の墓の写真です。

華蔵寺は、愛知県西尾市吉良町にあります。地元では、名君として慕われていました。



左:吉良町に伝わる「赤馬玩具」

中:義央公50歳の時の座像。華蔵寺にあります。

右:義央公愛用の茶道具。



義央公の像です。



義士団の引き上げの錦絵です。両国橋の渡橋は拒否され、永代橋を渡りました。



見にくいのですが、当時の吉良邸の図面です。



公園内の松坂稲荷大明神です。当時は兼春稲荷として邸内にありました。



義央公の碑です。



公園由良が書かれていました。



地元の人が大切にしてくれている気持ちが伝わってきました。



赤穂浪士による吉良邸討ち入りは、当時としても違法行為です。テロといっても過言ではありません。

浅野匠頭守を処罰したのは幕府であり、吉良上野介義央公には何の罪もありません。

仇を討つなら、幕府に対してするべきでした。

そんため仇討ちとしても認められておらず、本来は斬首であったところを、恩情で切腹という処置になりました。

しかし、当時の幕府批判が、赤穂義士として美談に仕立て上げられ、民衆の支持を得ました。吉良の人はもちろんのこと、おそらく、両国の人も肩身の狭い思いをしたに違いありません。

そもそも、吉良上野介がこの屋敷跡を拝領したのが、元禄14年(1701)9月3日です。
討入り後に没収されたのが元禄16年2月4日ですから、吉良家の上屋敷となっていたのは、1年半に満たない期間だったのです。

それでも、こうして、これまで大切に守っていてくれました。頭が下がります。

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