説を紹介します。
① 坂本家の「坂本」は明智光秀の居城のあった近江坂本に由来します。
初代太郎五郎は、明智光秀の女婿・三宅弥平次改め明智秀満の子(異説あり)といわれています。
ただしこの嫁は光秀の実子ではなく叔父三宅長閑(明智光兼)の娘です。
あの山崎合戦で敗れた後に、太郎五郎は長曽我部元親を頼って土佐に逃れます。ここで苗字も変え、郷里の坂本を名乗りました。
長曽我部元親の正室は、齋藤利三の妹。
利三の母は、光秀の父の妹で、秀満の叔母です。(ちなみに利三の娘は、家光の乳母、春日局です。)
ところで、秀満の父光安は、恵那明智城主遠山景行を名乗ります。
弟の利景が継いで、徳川幕府の旗本、遠山家になります。
この遠山家から、遠山の金さんで有名な遠山金四郎景元が出ました。
② テレビでも紹介されていましたが、初代・太郎五郎の墓碑の側面には「太郎五郎は山城国の生まれで、弘治、永禄のころ戦乱を逃れて才谷村にやってきた」といった意味のことが刻まれてます。
③ 坂本竜馬が長崎で海援隊を組織しますが、その前身は「亀山社中」です。
これは、明智光秀が丹波で初めて築城・城下町を築いた地が「亀山」(現在の京都府亀岡市)からとったという説があります。
もっとも、長崎の亀山につくったからという方が自然ですが…。
④ 坂本家は違枡桔梗紋(写真左)を用いており、明智氏の一族で明智秀満の末裔であると、坂本家(才谷家)には伝えられています。
明智家は桔梗紋(写真右)です。なお坂本姓になるまえの大浜姓のころの家紋は丸に田の字です。
ただし、当時は、武士の身分(郷士)を買うことができました。
商人である大浜家が、明智家につながる坂本家の身分を買ったのかもしれません。
実際、決定打はありません。
④などは、格を上げるために、かつての名家であること利用したというように考えることもできます。
司馬遼太郎は『竜馬がゆく』のなかでは、「坂本という、土佐にはめずらしい苗字は、家祖が琵琶湖のほとりの坂本城に在城していたことにちなんだもので、紋所は明智の桔梗である。」と書いています。
真偽のほどはともかく、こうやってあれこれ推理するのも歴史の楽しみの一つです。
① 坂本家の「坂本」は明智光秀の居城のあった近江坂本に由来します。
初代太郎五郎は、明智光秀の女婿・三宅弥平次改め明智秀満の子(異説あり)といわれています。
ただしこの嫁は光秀の実子ではなく叔父三宅長閑(明智光兼)の娘です。
あの山崎合戦で敗れた後に、太郎五郎は長曽我部元親を頼って土佐に逃れます。ここで苗字も変え、郷里の坂本を名乗りました。
長曽我部元親の正室は、齋藤利三の妹。
利三の母は、光秀の父の妹で、秀満の叔母です。(ちなみに利三の娘は、家光の乳母、春日局です。)
ところで、秀満の父光安は、恵那明智城主遠山景行を名乗ります。
弟の利景が継いで、徳川幕府の旗本、遠山家になります。
この遠山家から、遠山の金さんで有名な遠山金四郎景元が出ました。
② テレビでも紹介されていましたが、初代・太郎五郎の墓碑の側面には「太郎五郎は山城国の生まれで、弘治、永禄のころ戦乱を逃れて才谷村にやってきた」といった意味のことが刻まれてます。
③ 坂本竜馬が長崎で海援隊を組織しますが、その前身は「亀山社中」です。
これは、明智光秀が丹波で初めて築城・城下町を築いた地が「亀山」(現在の京都府亀岡市)からとったという説があります。
もっとも、長崎の亀山につくったからという方が自然ですが…。
④ 坂本家は違枡桔梗紋(写真左)を用いており、明智氏の一族で明智秀満の末裔であると、坂本家(才谷家)には伝えられています。
明智家は桔梗紋(写真右)です。なお坂本姓になるまえの大浜姓のころの家紋は丸に田の字です。
ただし、当時は、武士の身分(郷士)を買うことができました。
商人である大浜家が、明智家につながる坂本家の身分を買ったのかもしれません。
実際、決定打はありません。
④などは、格を上げるために、かつての名家であること利用したというように考えることもできます。
司馬遼太郎は『竜馬がゆく』のなかでは、「坂本という、土佐にはめずらしい苗字は、家祖が琵琶湖のほとりの坂本城に在城していたことにちなんだもので、紋所は明智の桔梗である。」と書いています。
真偽のほどはともかく、こうやってあれこれ推理するのも歴史の楽しみの一つです。