これも最近よく読んでいます。
ネット上から紹介します。
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安丸良夫, 岩波新書103(復刻版)
神々の明治維新
明治期の神仏分離や廃仏毀釈を取り扱った本である。どういう意図で始まり、どのように展開して行ったのかを調べてある。それは一部の狂信者が時代の混乱期に課した我侭ではなく、一貫した政策であった。経過は2段階になっていた。当初(慶応4年~明治2年頃)は、尊皇攘夷思想の延長に祭政一致の神国を目指したものであったが、やがて(明治3年以降)祭政は分離され、あくまで政治上の宗教政策として施行された。これに仏教側の抵抗があり、かつ地域差が重なって、全国まばらな展開となり、明治10年頃には治まったのである。
この一貫した政治的な意図は、キリスト教の拡大の阻止と宗教による国家統合であった。幾度か邪宗門の禁止が発令された。廃仏毀釈は、朝廷という新しい権力の威力を振りかざす意図があって行われた。仏具や更には伽藍まで破壊の対象となったが、力関係で免れたところもあった。特に真宗は習合もなく力もあり、また西本願寺は長州軍とのつながりもあり明治政府への多額の献金を行っており、中央とのパイプがあったので廃仏毀釈を収束へ導くことができた。
平田派や水戸派の国学者は初期には重用されたが、やがて長州藩出身者が政策を担った。省庁の変遷にもそれが現れた。すなわち、神祇官は太政官より上位にあったのだが、神祇省へ格下げされ次に教部省へと再編された。ここで西周を中心に宗教政策が実行された。
神仏分離令は、神道国家の建設のため行われた。伊勢神宮内宮を頂点とする国幣官幣社の元に、地方の郷社が定められ、さらに村毎に村社をおいた。一村一社を原則としたため妙な合祀がなされた。これは神仏習合をしている密教寺院や修験者への影響が大きかった。一方でこの時期に、神話の登場者・皇族・功労者を祀る新しい神社が多数作られることになった。さらに江戸時代の宗門改め制を壊して、氏子調規則により神社への帰属と信仰の国家管理をなそうとした。
しかし、明治5年には狭い範囲ではあったが信教の自由という提議がなされた。仏教側が対キリスト教政策に仏教が有用であるとの売込みを行い、受け入れられたからであった。大教院を作って神仏混合の布教所のようにしたが、各地での教導職による宣教は坊主のほうが上手かった。西欧からキリスト教敵視策が非難されたこともあり、大教院は廃止され布教が自由となった。明治15年には教派神道が独立し、政教分離が決定的となった。ただ国家統合の意図は、教育勅語へと受け継がれた。
年代、場所、人物など輻輳しているので、年表や関係図を作りながら読まないと判りにくい本である。しかし神仏分離・廃仏毀釈とお経のように覚えさせられた明治期の政策の実体が見えてくる。必要な者には大事な本のようである。
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ネット上から紹介します。
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安丸良夫, 岩波新書103(復刻版)
神々の明治維新
明治期の神仏分離や廃仏毀釈を取り扱った本である。どういう意図で始まり、どのように展開して行ったのかを調べてある。それは一部の狂信者が時代の混乱期に課した我侭ではなく、一貫した政策であった。経過は2段階になっていた。当初(慶応4年~明治2年頃)は、尊皇攘夷思想の延長に祭政一致の神国を目指したものであったが、やがて(明治3年以降)祭政は分離され、あくまで政治上の宗教政策として施行された。これに仏教側の抵抗があり、かつ地域差が重なって、全国まばらな展開となり、明治10年頃には治まったのである。
この一貫した政治的な意図は、キリスト教の拡大の阻止と宗教による国家統合であった。幾度か邪宗門の禁止が発令された。廃仏毀釈は、朝廷という新しい権力の威力を振りかざす意図があって行われた。仏具や更には伽藍まで破壊の対象となったが、力関係で免れたところもあった。特に真宗は習合もなく力もあり、また西本願寺は長州軍とのつながりもあり明治政府への多額の献金を行っており、中央とのパイプがあったので廃仏毀釈を収束へ導くことができた。
平田派や水戸派の国学者は初期には重用されたが、やがて長州藩出身者が政策を担った。省庁の変遷にもそれが現れた。すなわち、神祇官は太政官より上位にあったのだが、神祇省へ格下げされ次に教部省へと再編された。ここで西周を中心に宗教政策が実行された。
神仏分離令は、神道国家の建設のため行われた。伊勢神宮内宮を頂点とする国幣官幣社の元に、地方の郷社が定められ、さらに村毎に村社をおいた。一村一社を原則としたため妙な合祀がなされた。これは神仏習合をしている密教寺院や修験者への影響が大きかった。一方でこの時期に、神話の登場者・皇族・功労者を祀る新しい神社が多数作られることになった。さらに江戸時代の宗門改め制を壊して、氏子調規則により神社への帰属と信仰の国家管理をなそうとした。
しかし、明治5年には狭い範囲ではあったが信教の自由という提議がなされた。仏教側が対キリスト教政策に仏教が有用であるとの売込みを行い、受け入れられたからであった。大教院を作って神仏混合の布教所のようにしたが、各地での教導職による宣教は坊主のほうが上手かった。西欧からキリスト教敵視策が非難されたこともあり、大教院は廃止され布教が自由となった。明治15年には教派神道が独立し、政教分離が決定的となった。ただ国家統合の意図は、教育勅語へと受け継がれた。
年代、場所、人物など輻輳しているので、年表や関係図を作りながら読まないと判りにくい本である。しかし神仏分離・廃仏毀釈とお経のように覚えさせられた明治期の政策の実体が見えてくる。必要な者には大事な本のようである。
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