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ミシェル・フーコーは1926年、フランスのポワティエ市に生まれます。 外科医の父はフーコーを医学の道に進ませたかったようですが、 本人が文学の道を目指していたため、度々衝突したと言います。 1946年に、一浪の末高等師範学校に入学します。 同性愛者だった彼は、一度自殺未遂をするほど学生生活に悩んでいました。 卒業後、大学教員の資格試験を受けますが、これに失敗。 再度自殺未遂を図ります。 翌年に合格し、リール大学で教授の助手として働き出します。 このころ【狂気の歴史】で博士論文を提出しています。 1970年にはフランス最高の学習機関である コレージュ・ド・フランスの教授となります。 1984年にAIDSによって急死。58歳でした。 フーコーは、人間社会は権力によって作られた『構造』であり、 私たちはそれに支配されて生きていると考えました。 その支配方法や仕組みなどに関しては次回の動画で解説します。 彼は、それを解決するためには 過去に埋もれている『人間の考え方を形成したプロセス』を 歴史から掘り起こすことが必要だと考えました。 つまり、人間が支配されている構造を作った権力の集団が その構造を作るに至ったプロセスは歴史に眠っており それを解明することが、その構造を打破する鍵になると言ったのです。 これを【知の考古学】と表現します。 フーコーは歴史に埋もれた人間の思考形式を探っている際に 中世中国の百科事典と出会いました。 その中に収録されている『動物の分類』を見て驚愕したと言います。 そこでは 『皇帝に属するもの』『さっき壺を壊したもの』 『飼い慣らされたもの』『キ◯ガイのように騒ぐもの』 など、現代の感覚では全く理解できない分類がなされていたのです。 このことからフーコーは、人間の思考は古代より連続して進化したのではなく 各時代に特有な形で存在していると考えました。 この特有な思考形式のことを【エピステーメー】と呼びます。 そしてエピステーメーは時代とともに変化します。 中世の世の中においては、物事を認識する際に【類似】が重要視されていました。 世界の物事は類似関係によってお互いにつながっていると考え、 そのため、自然を中心にした占いなどが盛んに行われました。 17世紀になると、今度は【表象の分析】が重要視されます。 これはまさにベーコンやデカルトの影響ですね。 デカルトの演繹法的な考え方が浸透し、 物事を比較や分類を通して表面的に理解するようになります。 19世紀初頭になると【生命や人間】が重要視されます。 科学の発展によって、生物の内部まで理解できることができたために、 それまでに『生物』として見做してきたものを『生命』と認識するようになります。 これによって、今まで『自分』『他者』と分類してきたものに 『人間』という新しい概念が生まれました。 フーコーによれば、人間という概念が発明されたのは ここ200年ぐらいの話だというのです。 これにより、人は人間自体のことを深く考えるようになります。 実存主義の台頭なども、この影響を色濃く受けていると言えますね。 このように、各時代や社会において、 エピステーメーは移り変わっていきます。 そして、私たちが古代のエピステーメーを理解できないのと同様に、 もし未来人が私たちの思考プロセスや認識を見たとしたら 「何考えてたんだろうこいつら」 と思われる可能性も大いにあるということなのです。 そして、エピステーメーこそが構造の一部です。 我々は自身が生きている時代のエピステーメーを利用して 物事を認識しています。これには異論がないはずです。 その認識方法は、誰に教わったのでもなく、生きていく中で 自然に身につけたものであるはずです。 つまり、無意識のうちに構造に縛られていて、 私たちの思考や感情はこの時代のエピステーメーに支配されているのです。 古代人に 「君の考え方、相当間違っているよ」 と伝えても、おそらくそれは狂気として排除されるでしょう。 同様に現代に降り立った未来人が 「君の考え方、相当間違っているよ」 と伝えても、結果は同じですね。 その上で、フーコーは19世紀初頭に生まれた新しいエピステーメーも そのうち終わりがやってくる。と考えました。 近代の認識においては『人間』という概念が重要視されると言いました。 しかし昨今では、人間は社会の構造に縛りつけられ、 没個性化、平均化することで、社会の一部として存在しています。 自分の意思で主体的に行動していると思っても、 実は社会の構造に縛られて生きているだけだと彼は断言します。 つまり、そこには『人間』という近代的な存在はなく、 『人間ではない何か』が存在しているのです。 これを【人間の終焉】と表現しました。 人間ではない何か、については新たなエピステーメーとして それが捉え直されることになるのでしょうが、 どちらにせよ、フーコーが警鐘を鳴らす人間の終焉は 我々の時代になってより色濃く表出してきている気がしてなりません。 それどころか、もしかしたらすでに 人間は終焉しているのかもしれない。 そのように考えることもできますね。 次回は人間が社会の構造に縛られている その具体的な内容について解説します。 以上です。
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