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人物探訪 吉良荘物語⑥ 吉良義昭 /みかわこまち

2023-11-06 07:00:08 | 郷土の歴史

人物探訪 吉良荘物語⑥ 吉良義昭/みかわこまち

https://www.youtube.com/watch?v=O9gDC8OW7a4

家康の祖先は源氏??

初代の徳阿弥が、10代にわたり放浪して、松平家の婿養子になったというのが史実のようですが、

それが、どう新田氏に繋がっているのか?

私は、以前にNHKの放送であったように、秀吉に対抗するために系図を書き換えたと思っています。

秀吉の関白に対抗するためには、「源氏長者」を名乗る必要があります。

そのために、関東で活躍した新田氏に系図を関係させるためには、源氏の人に相談したと思います。

その相手は?

今川氏?信長に、ほぼ、滅ぼされてしまいました。

では?

今川氏は、吉良氏の傍系です。

そう、吉良氏でしょう。

吉良は岡崎のすぐ近く。

吉良と徳川は、その後も繋がっています。

吉良町に取材に行ったときも、そのような資料を見せていただきました。

とすると、徳川氏が源氏と繋がる系図は怪しいと言うことになります。

 

一方、家康の祖父、清康はなぜ世良田次郎三郎を名乗ったのか?

清康は安祥松平家の3代当主で、岡崎を征服し、武力により一族・重臣の掌握を急速に進め西三河を支配下におきました。

このとき、すでに「源氏」を意識しています。

吉良氏と対抗するためです。

Wikipediaには次のようにあります。


三河松平氏が世良田氏後裔を称した経緯[編集]

三河国戦国大名松平氏は、松平清康のとき清和源氏世良田氏の後裔と称するようになった。

清康は三河の支配層である守護足利系吉良氏への対立軸として、自身を新田源氏の名門に繋げるために、三河松平郷で没した政親(政義の子、親季の弟)の存在に着目したという[要出典]。さらに政親の祖先である世良田頼氏は三河守、三河の支配者の先祖として、着眼した清康は自身の安祥松平家の世襲の通称「次郎三郎」を用い、「世良田次郎三郎清康」と称したという。

清康の孫の松平家康は初め清康からの流れとして世良田氏を称していたが、1566年、三河統一のため三河守任官を望んだ際、「世良田氏に三河守叙任の前例はない」と拒否された。そこで家康は近衛前久に相談した。近衛前久は松平氏の祖とされる世良田義季が得川氏を名乗った文献があること、また新田系得川氏が藤原姓を名乗ったことがあることなどを突き止め[要出典]、家康個人のみが「徳川」に「復姓」(事実上の改姓)するという特例措置を得、従五位下三河守に叙任された。

豊臣秀吉政権の傘下に入ったころから、再び新田源氏に復姓していたようである。その頃安房里見氏(新田一族)に送った書状では、徳川氏と里見氏が新田一族の同族関係にあることを主張している。1590年関東へ移封された前後には、新田一族に繋がる岩松氏の末裔を召し出して新田氏の系譜を尋ねている事項が記録にある。

この過程で家康が改竄させた徳川氏の系譜では、松平氏の祖は、親季(政親の兄)の遺児とする有親(長阿弥)ということにされている。 すなわち親季の戦死後、その子の有親も南朝方として戦った(信濃で戦死したとも言う[3])。有親の子世良田親氏北朝方の追捕を逃れて時宗の僧となって徳阿弥と称し、流浪した。やがて三河国に流れつき、加茂郡松平郷の領主 松平信重左衛門少尉)の娘婿になり、還俗して松平氏の名跡を継ぎ松平親氏(松平太郎左衛門親氏)と名乗ったとした。

また、江戸幕府七代将軍・徳川家継童名世良田鍋松と称した[4]


どこまで正しいかは検討が必要です。

松平家・徳川家系図(家康以前) 西村健二作成

得川(世良田)義季から有親まで、そして松平初代の親氏のつながりがポイントでしょう。

それでは、足利と新田、世良田の関係は?

http://www8.wind.ne.jp/haruna-machinet/satomi_gou/keizu.pdf

う~ん、わからなくなってきました。


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