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美濃路・清州宿-5-

2025-01-17 07:25:56 | 取材・旅行

美濃路・清州宿-5-

2025年1月12日(土)、愛知ウォーキング城巡りクラブ(AWC) GW番外編史跡散策会、「美濃路・清州宿」へ行ってきました。 講師は、七種英康先生です。その様子を、数回にわたって紹介します。

今回訪問したところです。

第5回は、新川開削・東海豪雨 です。

上の数字に入れ忘れました。新川橋周辺です。

美濃路と周囲の土地には見るからに高低差があります。

地理院地図では、その土地の高さを調べることができます。

次の図を見比べてください。

地図中の「+」の場所の高さが、左下に示されます。北緯と東経も示されます。

美濃路上では「標高5.5m」となっています。

北へ数メートル進むと

標高「2.5m」となっています。実に3mの差がありました。


屋根神様を下ろしたのでしょうか?

新川橋を渡ります。

川の南側の様子です。

「冠水情報」は尾張北部では見られません。


新川ポケットパーク

ちょっとした公園が、県道126号線の「新川橋西」信号付近にあり、東屋・ベンチや解説板等が設置されています。

これを見ると、東海豪雨を思い出します。詳しくは後ほど・・・。

こうした説明板や道しるべが集められています。

美濃地の歴史の説明です。

文字起こししてみましょう。


美濃路の歴史

美濃路は江戸時代、東海道宮の宿から名古屋・清須・稲葉・萩原・起・墨俣・大垣を経て中山道垂井の宿に至る街道で、東海道から分かれて美濃へ向かう街道のため美濃路と呼ばれた。
平安時代、都から東国への道は、東山道と東海道があり、この二道を美濃~尾張で繋ぐ道が美濃路の原型となった。鎌倉時代には、京と鎌倉を結ぶ京鎌倉往還(鎌倉街道ともいう)が最も重要な街道となった。美濃路や東海道に、重なり離れ、いたるところにその名が残されている。

江戸時代の美濃路は織田信長・信雄の頃から整備されたもので、関ヶ原の戦いの後、京・大坂と江戸を結ぶ重要な官道として、五街道と同じく道中奉行の支配下に置かれた。
美濃路は桶狭間の戦いで信長、小田原征伐で秀吉、関ヶ原の戦いで家康の凱旋道となり、吉例街道と呼ばれた。

清須市を貫く美濃路には、昔ながらの町並みや、ものづくりの店が残されており、この地方独特の屋根神様、問屋記念館、山車蔵、今川義元塚、清須宿本陣跡、信長の菩提寺総見院など、多くの歴史や文化が溢れている。
ここ新川橋西詰には、かって高札場があった。また、美濃路から津島土への分岐点で、清須五条橋の石製欄干親柱を利用したといわれる道標も置かれていた。


津島街道道標です。


もうひとつの津島街道道標です。


先ほどの説明にも出てきた 新川橋親柱 です。


東海豪雨

東海豪雨のことはよく覚えています。

私自身、木曽川東小学校の帰り道、道路が冠水しており、道路と水田の境が分からず、怖い思いをしました。

また、西枇杷島中学校に、災害ボランティアに行ったことも覚えています。

文字起こししてみましょう。


東海豪雨による新川の決壊

平成一二年(二〇〇〇)九月一日から九月一二日にかけて、台風一四号から延びた秋雨前線によって、東海地方に記録的な降雨がもたらされた。名古屋地方気象台で一一日一九時に時間最大降雨量九三ミリメートルを記録し、一一日から一二日までの降雨量は五六七ミリメートルに達した。これは年間降雨量一五三五ミリメートルの三分の一以上に当たる豪雨であった。
この記録的な豪雨は東海豪雨と命名された。
河口から二一キロメートル地点に位置する北名古屋市久地野においては一一日の一九時四〇分から一二日、八時三〇分までの約一三時間にわたっ計画高水位(東京湾中等潮位六五七メートル)を超える状態が継続し、この間の一二日、二時五〇分には最高水位(東京湾中等潮位七・三二メートル)に達した。警戒水位(東京湾中等潮位四・五〇メートル)まで下がったのは一二日、一四時○○分であった。
自治体も警戒体制を強め、 水防団などによる水防活動が懸命に進められる中、一一日、二二時から一二日〇〇時にかけ、あいついで名古屋市西区、旧西枇杷島町及び旧新川町に避難勧告が出された。
しかし、ついに一二日、三時三〇分頃、新川の左岸、 愛知県立新川高等学校の対岸あたりの、名古屋市西区あし原町地内で堤防が約一〇〇メートルにわたって決壊した。
氾濫した水は庄内川と新川に囲まれた名古屋市西区と清須市西枇杷島町、同市土器野地内などに押し寄せ、ところによっては侵水深が二メートル以上に達した。左岸だけでなく右岸側においても内水氾濫が発生し、旧西枇杷島町地内で床上浸水四〇〇〇世帯余り、旧新川町地内で二〇〇〇世帯余りと甚大な浸水被害が生じた。
被災後、直ちに河川激甚災害対策特別緊急事業によって平成一二年(二〇○○)から平成一六年(二〇〇四)までの五年間で治水対策が実施され、庄内川と新川の一体的な整備が図られた。


動画です。

東海豪雨から20年~あなたの命を守るメッセージ~(第1部)「東海豪雨を振り返る」

写真で見る 東海豪雨

https://www.cbr.mlit.go.jp/shonai/tokai_gou_15yrs/photo_gallery/index.html

こうした記録は大切です。


清須川護陣屋

かってここには清須宿高札場があり、津島街道への分岐点でもあります。


新川開削

新川は人工の川です。

新川洗堰(しんかわあらいぜき)の築造と新川の開削は、時の尾張藩主徳川宗睦の命により、天明4年(1784年)に着工。 庄内川の北堤を長さ40間(約 73メートル)にわたって半分の高さに切り下げて、大水の時には庄内川の水をこの堰から分流し、新たに開削した新川を通じて伊勢湾に流れるようにしました。

文字起こししてみます。


新川開削

江戸時代、庄内川・五条川などが流入する低平な当地域は、たび重なる洪水によって甚大な被害を被ってきた。
寺野村庄屋丹羽義道は、農民の先頭に立って窮状の打開を尾張藩に訴願し続けた。そのため義道は閉居処分を受けた。
安永八年(一七七九)洪水の惨状を視察した藩主宗睦は、治水に長けた勘定奉行水野千之右衛門に庄内川の治水事業を命じた。
千之右衛門は庄内川に沿った新しい川の開削を計画した。窮乏する藩財政下、千之右衛門は、工事費を切り詰めて藩主の裁可を得た。さらに、財政難による工事中断を免れるため、比良村(名古屋市北区)から伊勢湾までを二〇〇か所以上もの工区に分け、天明四年(一七八四)一斉に着工した。工事の元方本陣は、当所の北側に設けられた。
着工後、過小な工事積算が発覚し、藩参政人見弥右衛門・普請奉行水野千之右衛門は責を問われ降職・謹慎となったが、藩主の英断により工事は継続され、天明七年、四〇万両の巨費を投じた新川が完成し、翌年の大水に際しても、流域住民は水禍を免れることができた。


新川開削頌徳碑

新川開削頌徳碑 です。


明日、第6回は、正覚寺 です。

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