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明仁天皇「戦争できる日本」に座を投げ打ち警告/韓国 中央日報

2017-05-09 05:57:00 | 日本を見つめる世界の目
韓国の中央日報に興味深い記事が載りました。

明仁天皇「戦争できる日本」に座を投げ打ち警告(1)

ここから http://japanese.joins.com/article/838/228838.html?servcode=A00§code=A00

今年5月は日本の未来に決定的に重要な時期だ。3日は日本平和憲法が公布されて70周年になる日だった。安倍晋三首相はこの日読売新聞とのインタビューで、「東京五輪が開催される2020年を『新しい憲法』が施行される年にしたい」と述べ初めて憲法改正スケジュールを具体的に示した。一生の目標である憲法改正を本格始動するという宣言だ。安倍首相は明治維新150周年を迎える2018年を前後して平和憲法を改正し、日本を「戦争のできる普通の国」に変えようと長い間準備してきた。

安倍首相が狙う「第2の明治維新」には3つが必要だ。戦争禁止を明示した平和憲法第9条の無力化と自衛隊の正式軍隊化、そして天皇の国家元首化だ。安倍首相は今回のインタビューで、「新しい憲法に自衛隊関連規定を新たに盛り込み自衛隊を合憲化する」という意志も隠さなかった。1954年に創設された自衛隊はイージス艦に準空母に至る強大な戦力を保有し、世界で派兵活動を行い実質的な「普通の軍隊」として活動中だ。それでも憲法に何の規定もなく存在と活動が「違憲」という指摘を受けてきた。したがってひとまず自衛隊を合憲化した後、機会を見てそっと正式な軍隊に転換し「戦争できる日本」を公式化するというのが安倍首相の本音と読まれる。

安倍首相を中心にした日本の右翼は天皇の地位も「象徴的存在」から「国家元首」に変えるという意図を示してきた。だが安倍首相は昨年8月8日不意の一撃を食らった。明仁天皇がこの日ビデオメッセージを通じ譲位の意志を直接明らかにしたのだ。天皇を頂点に全国民がひとつに総意を集め侵略戦争に出た「軍国主義の追憶」を再演しようとする安倍首相の構想が巨大な伏兵に会った格好だ。

安倍首相は3月の国会で明仁天皇一代に限り譲位できるようにする特例法を制定しようという意見が出てくると、「厳粛に受け止めただちに法案立案に着手する」と明らかにするほかなかった。その一方で安倍首相は「国民の総意」で退位を実現しようと国会で満場一致または圧倒的多数で法案を可決することを目標にしているとし余韻を残した。「国民の総意」という用語で軍国主義の悪夢を思い出させる。

◇帝国憲法では国家元首、平和憲法では国の象徴

特例法は早ければ5月19日の閣議でこれを決定する方針だ。日本政府は明仁天皇が即位30年になる年であり、85歳の誕生日を迎える来年12月23日を期して譲位手続きを終わらせ、2019年1月1日から現在の平成ではない新しい元号を使うことを検討中だ。皇位は徳仁皇太子が受け継ぐことになる見通しだ。英オックスフォード大学で学んだ留学派である徳仁皇太子は父親と同じように平和主義者として知られている。譲位がなされれば明仁天皇は現在の徳仁皇太子夫妻が暮らす東宮御所に移住するという話が出ている。


明仁天皇「戦争できる日本」に座を投げ打ち警告(2)
 http://japanese.joins.com/article/839/228839.html?servcode=A00§code=A00


日本政府が天皇の生前譲位に鋭敏な反応を見せるのには背景がある。明治時代である1889年に公布され太平洋戦争敗戦後に廃棄された大日本帝国憲法(旧憲法)では天皇を国の中心とした。憲法第1条から「大日本帝国は万世一系の天皇がこれを統治する」で始まり、「皇位は皇室典範の定める所により皇男子孫がこれを継承する」という第2条につながる。第3条は「天皇は神聖にして侵すべからず」、第4条は「天皇は国の元首にして統治権を総攬してこの憲法の条規によりこれを行う」、第11条は「天皇は陸海軍を統帥する」とされている。天皇を国家元首であり軍統帥権者、そして神聖不可侵な存在と規定した。ここに「天皇大権」と呼ばれる広範囲な権限を付与した。日本を天皇と国民が一体になる「君民一体の大家族国家」と規定した。安倍政権が使っている「国民の総意」という用語と一脈相通じる概念だ。軍国主義勢力は天皇の権威を掲げて国民に忠誠と服従、犠牲を強要して戦争に追いやった。裕仁天皇に提起される戦争責任論の根拠だ。

だが敗戦後の米軍占領下で制定され1947年に施行された平和憲法(正式名称は日本国憲法)は第1条で「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本国民の総意に基づく」と規定した。旧憲法で天皇が保有した国家元首職と軍統帥権者の規定を削除し、地位を「象徴」に変えた。これにより政治介入や発言が事実上禁止された。その後裕仁天皇は象徴的な儀式活動だけして1989年に死去した。

◇植民支配に「痛惜の念」明らかにした親韓派

明仁天皇は積極的な親韓派平和主義者だった。機会があるたびに平和を強調し韓国に親近感を示した。明仁天皇は1990年、「わが国によってもたらされたこの不幸な時期に貴国の人々が味わわれた苦しみを思い私は痛惜の念を禁じえません」と発言し、侵略の歴史の加害主体が日本であることを明確にした。2001年に韓日ワールドカップを控えた時期には右翼の圧迫にもかかわらず「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であり、韓国とのゆかりを感じている」と述べた。2005年のサイパン訪問時は韓国人慰霊塔も訪れた。敗戦70周年となる2015年1月には「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことがいま極めて大切なことだ」と一喝した。過去の侵略の歴史を反省するどころかむしろ美化しようとする歴史修正主義勢力に「歴史をありのまま見つめ過去に対する痛烈な反省と未来設計の材料にしよう」というメッセージを伝えた格好だ。皇室が再び右翼政治家の添え物にはならないという意志の表現でもある。

そんな明仁天皇が生前退位の意思を明らかにしたことは意味深長にならざるをえない。平和主義者であり親韓派である彼の生前退位は安倍首相と右翼勢力を中心とする憲法改正勢力に送る警告状と解釈できるためだ。天皇を前面に出し軍国主義時代の郷愁をなだめようとする右翼の企図を明仁天皇が「座」を投げて拒否したものという解釈が出てくる理由だ。

現在日本には天皇譲位に関する規定がない。1889年に制定された大日本帝国憲法に基づく旧皇室典範は天皇が死去してこそ皇位を継承すると明示し、譲位の不可を明文化した。当時宮内省で作った草案には譲位規定があったが、首相だった伊藤博文がこれを削除したという。天皇が軍国主義勢力の話に素直に従わず座を退いて抗議する事態を懸念した可能性がある。1947年に施行された日本平和憲法に基づく皇室典範でも「天皇が崩じたときは皇嗣が直ちに即位する」と規定し譲位を認めていない。この法律は明仁天皇が生前退位の意向を明らかにし改正に入ることになった。


明仁天皇「戦争できる日本」に座を投げ打ち警告(3)
 ここから http://japanese.joins.com/article/840/228840.html?servcode=A00§code=A00

◇伊藤博文、天皇の抵抗懸念し譲位規定削除

興味深いのは明仁天皇をはじめとする皇室が日本の歴史上最後に譲位した第119代光格天皇(1771~1840年、在位1780~1817年)の直系子孫という事実だ。光格天皇は8親等である第118代後桃園天皇(1758~1779、在位1771~1779)が跡継ぎのないまま死去すると後を受け継ぎ、いまからちょうど200年前の1817年に息子の仁孝天皇(1800~1846、在位1817~1846)に譲位して上皇になった。これまでの日本の歴史上最後の譲位だ。第120代仁孝天皇の後、第121代孝明天皇(1831~1867、在位1846~1867)、第122代明治天皇(1852~1912、在位1867~1912)、第123代大正天皇(1879~1926、在位1912~1926)、第124代昭和天皇(1901~1989、在位1926~1989)を経て明仁天皇につながった。

日本の歴史で譲位は珍しくなかった。125代にわたる過去の天皇のうち譲位したケースは59件に上る。皇位継承を順調にするため権力が強い時に直系子孫に譲位する場合が多かった。子どもたちに譲った後も自身は上皇の座に就き摂政を務め実権を持ち続けることができる。力及ばず強制的に譲位させられる場合もあった。実勢権力に不満を示すために座を退いたこともあった。仏教伝来後には在位中に死去すれば座を汚し子孫に不吉と考え譲位する場合も少なくなかった。譲位後に太上天皇、すなわち上皇という尊号を受け権力を行使するのが日常的だった。上皇が髪をそり仏門に帰依すれば法皇と呼ばれた。権力行使は法皇になっても中断しなかった。

◇譲位、高度な政治行為であり権力闘争手段

徳川幕府時代(1603~1868)の天皇は相次いで譲位した。第108代後水尾天皇(1596~1680、在位1611~1629)は幕府の将軍に押され権威に傷を負うとすぐ譲位した。幕府に不満を示そうとする意図だったとの分析もある。彼は譲位後にも上皇(後に出家し法皇)として朝廷の権力を振るった。妻が第2代将軍徳川秀忠の娘だったため幕府も止められなかった。後水尾天皇が死去した後も跡継ぎがいないまま死去した場合を除くとすべて譲位され上皇や法皇になった。

日本の譲位の歴史は始まりから権力闘争と関連が深い。1370年ほど前の645年に女性天皇である第35代皇極天皇(594~661、在位642~645)が弟である第36代孝徳天皇(596~654、在位645~654)に座を譲ったのが日本の歴史上初めての譲位だ。皇極天皇は夫であり叔父である第34代舒明天皇(593~641、在位629~641)が死去して即位したが、野心あふれる息子の中大兄皇子が権臣らと権力闘争を行い改革を推進するとすぐに実権を与え一線から退いた。

日本では譲位が高度な政治活動にならざるをえないという事実を歴史はよく示している。明仁天皇の譲位は民主主義時代の日本の君主の役割をよく示す事例でもある。

チェ・インテク論説委員







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