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関ヶ原の戦い-なぜ徳川の時代に?-5-

2009-07-12 07:42:51 | 社会科関連情報
 いろいろ調べていると、興味深いサイトをいくつか見つけました。
 関ヶ原ブログ http://blog.livedoor.jp/mansaku21/ は、わかりやすくまとめています。
 今回は、いよいよ家康の動きが始まる「直江状」と、事実上の宣戦布告「内府ちかひの条々」、そして、東軍の士気を高めた細川ガラシャ事件です。
 ⑦ 「直江状」と「内府ちかひの条々」
 日本の歴史を変えた手紙の一つが直江状。内容は次を見てください。
 原文 http://sengokujapan.at.webry.info/200811/article_2.html
 直江状全文読み下し http://blog.livedoor.jp/mansaku21/archives/50477493.html
ここからは現代語訳も読む事が出来ます。
http://blog.livedoor.jp/mansaku21/archives/50786862.html (後に引用)
 さて、大河ドラマで人気の直江兼続。彼が書いた日本史上屈指の挑発文で、徳川家康を怒らせ、関ヶ原の戦いにつながりました。
 簡単にまとめると、五大老の一つ上杉景勝の謀反の動きに対して釈明を求めた家康に対して出されたのが「直江状」。それは、家康に対する挑戦状でした。
  
 上記現代語訳から引用すると例えば次のものです。
「よく調べもしないで、讒人の言うことだけ鵜呑みにして、謀反だ謀反だと騒ぎ立てるなんてガキじゃあるまいし、いい加減にしてくださいよ。昨日までは謀反を企んでいたヤツでも、謀が失敗とわかれば、さっさと上洛して、縁組して…新知行を受けて…恥も外聞もなくしゃあしゃあとしているのが当世風ですが、ウチの景勝には似合いません。讒人を取り調べてください。それもしないなら上洛なんて冗談じゃないですよ。」
「景勝には謀反の心などまったくないのに、どこかの誰かさんは、太閤殿下のご遺命に背いて勝手なことばっかり。まあ、いざそっちから手を出してきたとしたら、悪人の烙印は免れないでしょうな。」

 さて、「直江状」、その歴史的意味は?
 直江状を受け取った家康は、直ちに上杉征伐を全国の諸大名に命じました。地元の堀尾吉晴や生駒親正が出陣を思い留まるよう進言しましたが、家康は拒否。一気に会津への出陣を目指し大坂城を出ました。1600年6月16日のことです。
 これに乗じて、石田三成も動きます。
 こうしてみると、関ヶ原の戦いに直接つながった、いわば歴史を変えた一通の手紙が「直江状」なのです。
 ここまでの家康の動きから考えると、家康は会津を攻めると見せかけて、三成が動くのを待っていたと私は思うのです。「直江状」も、ある程度の内容は予期していたと思います。
 
三成は、愛知川に関を設け、西側の武将をまとめます。そして、五奉行のうち三人(前田玄以・増田長盛・長束正家)がまとめた家康の罪状「内府ちかひの条々」を大義名分にして立ち上がったのです。
この条文は、一三か条にわたる家康弾劾状で、毛利輝元が大坂城に総大将として入場した7月17日に事実上の挙兵宣言として出されたのです。 
 
歴史は、手紙や檄文が動かしていくのです。

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