東美濃FW -4-
令和6年9月29日、いつものメンバー(積知積徳会)で、東美濃周辺へFW(フィールド・ワーク)に行ってきました。その様子を数回にわたってお知らせします。
1から6が今回の訪問地です。
1 富加町郷土資料館 2 夕田墳墓群 3 清水寺 4 加治田城 5 いぶカフェ 6 日龍峯寺
AからIは関連地です。
A 美濃金山城 B 猿啄城 C 堂洞城 D 龍福寺 E ヤマザキマザック工作機械博物館
F 関市役所 G 米田城 H 八坂山城 I 関城(安桜山城)
第4回は、信長の東濃攻略-堂洞城攻め-です。
第1回の「織田信長の東美濃攻略 絵図 冊子」から紹介します。
記事は、『
』
46 堂洞砦を攻撃
猿啄から三里奥(1)に加治田の城というのがあった。城主は佐藤紀伊守・息子右近右衛門という父子が、織田方の味方となって居城していた。
美濃方の長井道利は、加治田を攻めようとして、二十五町(2)離れた堂洞(3)というところに砦を構え、岸勘解由左衛門(きしかげゆざえもん)と多治見一党を配備した。 そして長井道利は、有名な鍛冶の村である関(4)というところから五十町離れた本陣に詰めていた。
このような情況から加治田が攻められると判断して、(永禄七年) 九月二十八日、信長は出馬し、堂洞を包囲して攻撃した。 三方が谷で、東方は丘続きである。 その日は風 が強く吹いていた。
信長は駆け廻って情況を見、 「松明(たいまつ)を作り、持ちよって、塀ぎわに詰め寄ったら、四方から投げ入れよ」と命じた。一方、長井道利は織田勢を後ろから攻めようとして、堂洞砦の下二十五町の山下まで進出し、軍勢を配備したが、足軽さえも出撃させなかった。
信長は長井勢を迎え撃つ兵を別に配置しておいて、砦を攻めさせた。命令どおり松明を投げ入れ、二の丸を焼き崩したので、城内の敵は本丸に入って一団となった。 この時、二の丸の入り口にある高い建物の上に太田牛一がただ一人で上がり、無駄矢もなく矢を射かけていたのを信長が見て、「小気味よい見事な働きである」と、三度も使いの者をよこした。称賛して、知行(5)を増やしてくれた。
午の刻(6)に砦に取り付き、西の刻(7)まで攻め続けて、すでに暮れ方になった。 河尻秀隆(かわじりひでたか)が本丸へ突入し、丹羽長秀が続いて突入したが、敵方、岸勘解由左衛門・多治見一党の働きぶりも並々ならぬものであった。しばしの戦いに城内の兵は入り乱れ、敵味方の見分けもつかないほどだったが、ついには大将格の者はみな討ち果たした。
その夜、信長は加治田へ行き、佐藤紀伊守・右近右衛門二人のもとへ出かけて対面し、そのまま右近右衛門のところに宿泊した。 父子は感激の涙を流し、「ありがたい」と言うことさえ、なかなか言葉になりにくいほどだった。
翌二十九日、堂洞の山下の町で首実検をし、引き揚げようとした時、関方面から長井道利が、また井口(8)から斎藤龍興(たつおき)が攻めかかって来た。敵の軍勢は三千以上あった。信長の軍勢はわずか七、八百に過ぎなかったろう。負傷者・死者が多数出た。
撤退したところは広い野原であった。信長はまず陣容を立てなおし、負傷者・使用人たちを退かせ、追撃して来る敵に足軽を出して備えるよう、馬を乗り廻して指示し、やすやすと軍勢を撤退させた。敵は「残念なことをした」と言ったそうである。
(1)三里=約二キロメートル (2)二十五町=約二七キロメートル (3)堂洞=岐阜県加茂郡富加町~美濃加茂市 (4) 関=関市 (5) 知行=所領 (6)午の刻=正午前後 (7)酉の刻=午後六時前後 (8) 井口=岐阜市、稲葉山城
太田牛一は『信長公記』の著者です。
資料館にあった図です。
関城主長井隼人、堂洞城主岸勘解由信、加治田城主佐藤紀伊守忠能の三人の武将は、反信長の「三城の盟約」を結びました。しかし、加治田城主佐藤紀伊守は織田信長と密かに通じていたのです。この密約のために、佐藤紀伊守は自分の娘を岸勘解由の息子に嫁がせました。これが後の悲劇になります。
次も資料館にありました。
この辺りは、広報「とみか」に書かれています。
出典 https://static.gifu-ebooks.jp/actibook_data/kouhou-tomika_202003_no555_01/HTML5/pc.html#/page/4
『夕雲の城』は購入しました。他に、『斎藤新五利治』も購入しました。
右下のプロモーションビデオです。
夕雲の城
前回に続き、このサイトをご覧ください。
https://www.sengoku-battle-history.net/douhora-kassen/
<label class="toc-title" for="toc-checkbox-1">目次</label>
堂洞城の動画です。
れきぴーちゃんが堂洞城にいってきました。
【日本の城】美濃国堂洞城 令和5年(2023) 晩春
ここまでの戦いをまとめた動画です。
織田信長、美濃攻略戦② - 歴探見るラジオ放送局
次も流れがわかります。
織田信長が連戦連敗した美濃攻略戦を解説
もう少し前から知るにはこれ
#6美濃掌握戦【信長の戦い】
再び資料館に戻りました。
熱心に教えていただいた館長さん。ありがとうございました。
正倉院の戸籍の関係で、校倉造なのでした。
【おまけ】
『信長公記』にはありませんが、【河野島の戦い】という堂洞合戦の翌年にあったといわれる合戦の記録が残っています。
今でいうと(各務原市)「川島の戦い」です。
詳しくはここから
https://www.sengoku-battle-history.net/kawanoshimanotatakai/
目 次
まさに、郷土の歴史です。
目を通しておきましょう!
次回に続きます。次回は、夕田茶臼山古墳です。
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