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関ヶ原の戦い-なぜ徳川の時代に?-8-

2009-07-14 06:16:37 | 社会科関連情報
 今日は、もう一ついきましょう。

 東軍が西へ軍を進めています。
 ここで問題です。あなたは大将です。東海道から大垣方面へ軍を進めるなら、木曽川のどこを渡りますか?地図を見ながら考えてみてください。
 実際には…
 池田輝政は、各務原市の川島を選びました。確かに、川幅が狭く、渡りやすいのかもしれません。
 東軍は現在の河川環境楽園あたりに陣を張り、さらに進軍し、木曽川渡河の時に西軍と激突します。これが、「河田木曽川渡河の戦い」。さらに、木曽川を渡った東軍と待ち受けた西軍との米野村での戦いが「米野の戦い」といいます。
 関が原の前哨戦が、すぐ近くで繰り広げられていたのです。

 ⑬ 二代目の士気
 日本では世襲議員の是非が話題になっていますが、戦国時代も同じような悩みがありました。むしろ戦国時代のほうが悩みは深刻で、世襲が前提なので、二代目や三代目の能力・意欲に欠けても、大将として命を預けなければならないのです。
 三成の誤算がいくつかありました。
 たとえば、織田秀信が守る岐阜城がわずか一日で陥落したことです。秀信は信長と吉乃の孫です。秀信は始め東軍の準備をしていましたが、三成に誘われて西軍に参加しました。 一方、攻める池田輝政は、元岐阜城の城主なので、相手のことを知り尽くしています。しかも、もともとは仲間同士。秀信は自害しようとしましたが、敵に命を助けられています。
 岐阜城攻略に際し、東軍の諸将が軍議をこらした場所が、我が家の隣にある、曼陀羅寺の大書院です。

 三成の誤算はこれだけではありません。
 宇喜多 秀家は10歳で家督を継いで、彼自身は優秀でしたが、キリシタンの豪姫を正室としたことから、お家騒動がおきます。家康が仲介し、宇喜多家を去った有力家臣が家康につくことになります。
 カリスマ的に家臣を繋いできた初代に比べ、2代目の悲哀といえるかもしれません。
 西軍の総大将、毛利輝元は、名将・毛利元就の3代目。西軍総大将でありながら、自らは出陣せず、三成が敗れると、徳川家康に申し出て自ら大坂城から逃げ出します。もともと戦う気がなく、その後の家を守ることを考えていた気がします。
 東軍のモチベーションと明らかに違う西軍。これが、戦況を決めることになるのです。

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