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関ヶ原の戦い-なぜ徳川の時代に?-7-

2009-07-14 06:07:28 | 社会科関連情報
 いよいよ東軍も動き出しました。ただ、攻めていけばいいわけではありません。
 ⑩ 最上・伊達の上杉攻撃
 東軍は西へ戻りますが、今回のきっかけである上杉はどうなった?このままでは、逆に挟み撃ちになる可能性もあります。
 ここで、任せたのが家康の二男・結城秀康。秀吉の養子になり、結城氏に婿入りした秀康は、弟の秀忠と違い優秀でした。関東の留守を守り、佐竹を押さえます。最上は直江兼続に攻撃を受けますが、伊達が協力して上杉を押さえます。
 関ヶ原の戦いは、関東でも起こっているのです。

 ⑪ 家康の手紙作戦
 政党の多数派工作は、離れている人には今なら電話が中心でしょう。しかし、当時は手紙しかありません。
家康は、秀忠を中山道、福島正則らを東海道で西に向かわせ、自らは江戸城で手紙を書きまくります。「内府ちかひの条々」への反論を伝えるためです。
 さらに、三成についた武将を東軍に誘うためです。
 その数200通。吉川広家、小早川秀秋の寝返りの約束を取り付けます。
 結局、この手紙が東軍の勝利を決めました。

⑫ 名将 真田昌幸
 全体的には、家康の作戦が成功しています。数少ない誤算が、真田昌幸が西軍についた事。その真田昌幸の居城・上田城のある中山道に、秀忠を向かわせた事です。その上田城を攻めあぐね、秀忠軍は関ヶ原決戦に間に合わなかったのです。
 せめて、結城秀康を大将にしていれば、展開は変わった事でしょう。
小山評定が7月25日、秀忠の進軍が8月24日、そして家康が江戸城を出たのが9月1日の事です。

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