《 生駒 利豊 -1- 》
江南郷土史研究会の説明には次のように書かれていました。
天正3年(1575年)出生・丹羽郡小折村小折城(生駒屋敷)(現江南市小折町)
幼名・蜂須賀五郎八、家直、長知、利豊、隼人正、大炊佐因幡守、従五位下
秀吉より『小折村1500石、後4000石』賜う
寛文10年(1670年)96歳 逝去
生駒氏からは、利豊だけでなく、父の家長や、尾張生駒家中興の祖といわれる6代利勝も紹介したほうがよいでしょう。
まずは、吉乃の兄、家長です。
家長は、初めは犬山織田氏についていました。
妹の吉乃が信長の側室に迎えられたことにより、父ともに信長の家臣となったのです。
信長に従い、浮野の戦い、桶狭間の戦いなど次々に軍功を挙げました。
信長創世期の家臣だったのです。
その後、家長は、甥に当たる信雄、秀吉と次々に主を替えてきました。
家長の死後は三男の善長が継ぎ、その後、五男の利豊が継いだのです。
利豊は、尾張藩主となる家康の九男徳川義直に仕えました。
以後、子孫は尾張藩士として幕末まで続いたのです。
ちなみに、三男の善長は、その後妹の嫁ぎ先蜂須賀家に招かれ、子孫は徳島藩の代々中老を務める家柄として続きました。
宝頂山墓地には、生駒氏の4代家長・5代利豊が葬られています。
中央の家型墓地が利豊です。
6代利勝は、1629年生まれ。尾張藩士肥田孫左衛門の長子で、母は生駒利豊の娘です。
生駒家に養子として迎えられました。
尾張藩2代藩主徳川光友、3代藩主綱誠に仕え、尾張生駒家中興の祖といわれています。
利勝といえば、富士塚を建てたことでも有名です。
初代家広からの由緒と武勲を後世に伝えるため、1682年、石碑に刻んで亀形の台石の上に立てました。
碑詞は、あの林羅山の孫、信篤の作です。
次回も利勝について紹介します。
江南郷土史研究会の説明には次のように書かれていました。
天正3年(1575年)出生・丹羽郡小折村小折城(生駒屋敷)(現江南市小折町)
幼名・蜂須賀五郎八、家直、長知、利豊、隼人正、大炊佐因幡守、従五位下
秀吉より『小折村1500石、後4000石』賜う
寛文10年(1670年)96歳 逝去
生駒氏からは、利豊だけでなく、父の家長や、尾張生駒家中興の祖といわれる6代利勝も紹介したほうがよいでしょう。
まずは、吉乃の兄、家長です。
家長は、初めは犬山織田氏についていました。
妹の吉乃が信長の側室に迎えられたことにより、父ともに信長の家臣となったのです。
信長に従い、浮野の戦い、桶狭間の戦いなど次々に軍功を挙げました。
信長創世期の家臣だったのです。
その後、家長は、甥に当たる信雄、秀吉と次々に主を替えてきました。
家長の死後は三男の善長が継ぎ、その後、五男の利豊が継いだのです。
利豊は、尾張藩主となる家康の九男徳川義直に仕えました。
以後、子孫は尾張藩士として幕末まで続いたのです。
ちなみに、三男の善長は、その後妹の嫁ぎ先蜂須賀家に招かれ、子孫は徳島藩の代々中老を務める家柄として続きました。
宝頂山墓地には、生駒氏の4代家長・5代利豊が葬られています。
中央の家型墓地が利豊です。
6代利勝は、1629年生まれ。尾張藩士肥田孫左衛門の長子で、母は生駒利豊の娘です。
生駒家に養子として迎えられました。
尾張藩2代藩主徳川光友、3代藩主綱誠に仕え、尾張生駒家中興の祖といわれています。
利勝といえば、富士塚を建てたことでも有名です。
初代家広からの由緒と武勲を後世に伝えるため、1682年、石碑に刻んで亀形の台石の上に立てました。
碑詞は、あの林羅山の孫、信篤の作です。
次回も利勝について紹介します。