2024年4月29日(月)、愛知ウォーキング城巡りクラブ GW番外編史跡散策会、「堀川七橋めぐり」へ行ってきました。 講師は、七種英康先生です。その様子を、7回にわたって紹介しています。
今回の結論は、次の動画に象徴されています。堀川の視点でご覧ください。
ただし、尾頭橋は新橋と表記されています。
アーカイブス 江戸時代の名古屋CG(古地図と尾張名所図会)
第4回は 納屋橋 周辺です。
今回周辺の古図です。
洲崎神社から北上します。
「名古屋大学の源流」って何?
文字起こししてみましょう。
名古屋大学が名古屋帝国大学として創立されたのは1939 (昭和14)年であるが、 その源流は1871 (明治4) 年の名古屋藩仮病院 仮医学校にまでさかのぼる。 その後、 西本願寺掛所 (別院) をへて、 1877年にここ天王崎町に新築移転した。
敷地はおよそ18,800平方メートル。 堀川河畔の街路に面した表門を入り、植え込みに囲まれた爪先あがりの道を右に登ると病院が、 左にとると医学校があった。 和洋折衷の建物は、 出入り口や窓枠にアーチが取り入れられ、白しっくいにガラス窓の二階建て建築で、 堀川河畔の高台にその偉観をほこった。 当時 「河の病院」と呼ばれ、人々に親しまれた。
お雇い教師ローレツらの指導で西洋医学が広められ、この地域の医療行政もおおいに刷新されて、 あたらしい医療への信頼が高まった。
1914(大正3)年に現在医学部のある鶴舞に移転するまでの37年間、名実ともに医学の殿堂として医学教育と医療活動における輝かしい足跡を残した。
愛知医学校 愛知病院の堀川東岸への新築移転後130年を記念して、名古屋に西洋医学が移入された明治初頭を彷彿とさせる碑を設置する。
なるほど・・・
天王崎橋です。
さらに北上します。
振り返ると・・・
これは何?
説明板です。
文字起こししてみましょう。
江戸時代、この地には尾張藩の藩倉が建ち並んでいた。 明治四十年、名古屋港は国際通商港として開港し、諸外国との貿易が始まった。
当時、堀川の水運を利用し、 多くの輸出品が名古屋港に集結された。 輸入品も、名古屋港から名古屋の町へ堀川を上る船によって運ばれてきた。輸出入品の荷物を積み下ろしする拠点として、納屋橋河畔にT字型の堀割が掘削された。 水路は石組みの堅牢なもので、昭和二十年名古屋空襲で倉庫が焼失するまで活用された。 倉庫が建ち並ぶ敷地は天王崎町、 竪三ッ蔵町の一万五百余坪に及ぶ広大なものであった。
この辺りは倉庫群だったのですね。その積み卸しのためのT字型の掘り割りだったのです。
その倉庫群がこれ。納屋橋を北の橋として、南に大きな倉庫群があります。三蔵(広井貢納蔵屋)配置図・「天明年間名古屋中支配分図」より
特に長さ55mもの大きな蔵が3つあり、「三蔵(みつくら)」と呼ばれていました。
天王崎橋を東西に通る道が「三蔵通」朝日新聞社西側の南北の道が「竪三蔵通」という名前に残されています。
約250年もの長いあいだ、藩の蔵がおかれていましたが、明治になると税金はお金ではらうようになり米を保管する蔵はいらなくなりました。このため、明治6年(1873)に、それまで広小路本町の東南角(現東急イン栄)にあった牢屋がこの場所に移されて、懲役場と名前も変えられました。
その後、明治39年(1906)に設立された東海倉庫株式会社が、堀川を利用して船で物を運ぶのに便利なこの土地を買い取り、倉庫として使うようになりました。
尾張藩は69万石で、全国でも数少ない非常に大きな藩でした。このため、年貢としておさめられる米もたくさんになります。
蔵のたっている土地は、南北が約260m、東西が北側(広小路側)は約70m、南側は約110mという広い土地で、まわりは高い塀でかこまれていました。中には26の蔵があり、その出入り口はあわせて83か所もありました。蔵には7万3000石の米を保管できたそうですが、これは米を入れる俵の数では約18万個、重さでは1万トンにもなります。
元和5年(1619)からは、蔵の管理をする御蔵奉行(おくらぶぎょう)がおかれていました。
数多くの蔵に小舟で米俵を輸送するために、三蔵通りと広小路の間に水路が掘られ、「入江町」通りの名称となりました。
懲役場は明治30年愛知郡千種村(現・名古屋市昭和区吹上2丁目、吹上公園付近)に移転、名古屋刑務所に改称、昭和40年若宮大通(100m道路)の建設に伴い、現在地みよし市ひばりヶ丘に移転しています。
出典 https://www.fukkatu-nagoya.com/sumiyoshi-kataribe/vol52.html
この像はだれ?
説明板です。
文字起こししてみましょう。
名古屋発展の礎 福島正則公
福島正則公は永禄4年(1561) に現在の愛知県あま市で、 大工の息子として生まれた。
若くして豊臣秀吉公に仕え、 賤ヶ岳の戦いで手柄(七本槍の筆頭)をたて、出世の端緒をつかんでいる。 加藤清正公とともに秀吉公の子飼の武将として活躍し、35歳で24万石の清須城主となった。 関ヶ原の合戦では東軍に加わり、 40歳で広島などを領有する50万石の大名にまで出世し、 慶長15年(1610)の名古屋城築城の時を同じくして、 正則公により堀川が開削された。
しかし、水害に遭った広島城を勝手に修繕したという口実で、元和5年(1619) に4万5千石の高井野藩主(現: 長野県高山村)に改易され、失意のなか寛永元年(1624) に64歳で亡くなった。
正則公が開削した堀川は、 城下への幹線輸送路や身近な憩いの水辺として人々の暮らしを支え、明治になると沿川には多くの工場や製材所ができ、行き来する艀や筏が工業都市名古屋を支えてきた。
このため堀川は「名古屋の母なる川 堀川」 と言われている。
しかし、昭和30年代 (1955~64) からトラックが普及して静かな水面となり、 今は都心の貴重な憩いの水辺として親しまれている。
福島家への厳しい仕打ちは、幕府にとって、福島家がいかに怖かったかの裏返しです。
ともあれ、堀川は、福島正則のおかげなのです。
なごや堀川クルーズの乗り場です。
途中で見かけたクルーズ船です。
詳しくはこのサイトをご覧ください。
https://www.nagoya-horikawa-cruise.jp/
船遊びは昔から行われていました。
この絵は名古屋市博物館蔵の「御船御行列之図」です。享和2年(1802年)頃に書かれました。尾張藩主宗睦の養子治行の正室従姫が出家した後に、船遊びを楽しむ図です。31隻の船行列が描かれています。
納屋橋の説明です。
文字起こししてみましょう。
納屋橋は堀川に架かる広小路通の橋であり、慶長15年(1610) 名古屋城の築城の折り堀川が開削された時に架けられ、 附近の地名をとってこの名が付けられたと伝えられている。
その後、幾度か架け替えられ、大正2年(1913)鋼製のアーチ橋に改築され、名古屋の名橋として広く市民に親しまれてきた。 その欄干の中央には堀川開削の総奉行福島正則の紋所があり両脇には郷土三英傑、 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の紋所が飾られている。
改築にあたり欄干を再び使用して長くこの橋の面影をしのぶこととした。
これまで、何十回、いえ、それ以上歩いて渡った橋です。
かつての欄干が復活しました。
福島正則の紋です。
三英傑の紋も遠慮して小さくありました。
ここで動画を見てみましょう。
加藤商会ビルです。
「旧加藤商会ビル」という名の登録有形文化財で、 戦前はシャム国(現在のタイ)の領事館の役割も果たしていました。
現在は、本格的タイ料理レストラン「サイアムガーデン」と「堀川ギャラリー」があります。
納屋橋をじっくり見るのは初めてです。
さらに北上して錦橋です。
木挽町通りをさらに北上します。
動画です。
明日に続きます。明日は伝馬橋です。
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