4月15日は新聞休刊日なので、昨日のコラムを一部紹介します。
毎日新聞
・ ダイビングの名所として人気の北マリアナ諸島・テニアン島は75年前、太平洋戦争の激戦地だった。島は1週間で攻略され、軍民合わせ1万5000人以上の日本・朝鮮・台湾人らが戦死した。民間人は集団自決だったとの証言もある
▲天皇、皇后両陛下が戦後60年に初の海外慰霊で訪れた隣のサイパン島は、その1カ月前に陥落している。米軍はテニアンに飛行場を造成し、日本本土空襲のB29爆撃機は連日ここから出撃していく
▲今年3月、国の戦没者遺骨収集派遣団がテニアンを調査中、遺骨発掘・鑑定の第一人者である人類学者の楢崎修一郎さんが体調を崩し急逝した。享年60。昨年末大学を退職し、遺骨収集に専念する生活を始めたばかりだった
▲1月ミャンマー、2月マーシャル諸島へ各2週間出かけた疲れがあったのか。米英仏の大学で学び、研究の合間に続けた20回を超える海外遺骨収集体験を昨年まとめた「骨が語る兵士の最期」(筑摩選書)が遺著となった
▲本土を除く太平洋戦争戦没者240万人のうち113万人の遺骨がみつかっていない。楢崎さんは現地踏査を重んじた。埋葬、処刑、戦闘死、餓死など死者たちの最期が分かるからだ。「戦没者を二度戦死させない」が口癖だった
▲少年時代、実家で戦死した伯父たちの遺影を見ながら戦争の本を乱読したという。今月6日、群馬県高崎市で営まれた葬儀では広島の原爆投下を目撃したご両親の姿に参列者の胸が塞がった。原爆搭載機が飛び立ったのもテニアンだった。
日本経済新聞
・ 東京タワーの明かりが消えた。バブルの象徴だった六本木の街が静寂に包まれた。銀座のショーウインドーには白菊や黒いリボン。午前零時、皇居前広場では暗闇のなかで数百人がただ手を合わせて「昭和」を見送った。30年前の、平成が始まるときの東京風景である。
▼昭和天皇の逝去から18時間後の改元だ。当時の新聞を読み返すと、世の中はあの夜、いまでは想像しがたいほどの自粛ムードだったことを思い出す。テレビは追悼番組を流しつづけ、土曜日なのに盛り場は閑散として新しい時代を迎えた。さて、時は流れて「平成→令和」。前回とは正反対の改元フィーバーが列島を覆う。
▼菅官房長官が新元号の額を掲げた直後から令和あやかり商品は続々登場し、5月1日の「令和婚」カップルの婚姻届を受理するのに役所は特別態勢だという。あと2週間。いよいよ到来するその瞬間に向け、お祭り騒ぎの熱はいや増すはずだ。渋谷のスクランブル交差点にはカウントダウンの人々があふれるかもしれない。
▼行きすぎた自粛や沈痛な空気の伴わぬ、こういう明るい改元が実現するとはかつて誰が考えただろう。諒闇(りょうあん)の静けさが社会のすみずみに広がり、カウントダウンはおろか、歓声をあげるのも憚(はばか)られた「昭和→平成」の節目とはことごとく違うのである。もちろん、もっと昔とも違う。走り出すと一色になる国民性を除いて。
中日新聞
・ 店の入り口に掛けられた「暖簾(のれん)」。「暖簾」に暖の字が入っているのはもともと風よけに使われていたためだったからだそうだ
▼言語学者の楳垣実(うめがきみのる)によると、店の入り口に掛けられるようになったのは江戸期とみられ、やがて暖簾そのものが店にとっての信用、伝統、品格のシンボルとなっていく。「暖簾師」なる隠語もあったそうだ。大丈夫そうな品物を見せておいて、売るときは別の怪しげな商品にすり替える。そういう商売人のことだそうだ
▼その商品が大切な家族を乗せ、もし間違いがあれば人の命にかかわる車だったとしたら。そんなことを想像してしまう、スズキの不正検査問題である
▼制動力が不十分なブレーキにも合格のはんこを押し、検査員は無資格だったとは聞いてあきれる。安全、安心を売ってきた大切な暖簾はきずがつくどころではなく、切り刻まれたも同じだろう
▼検査不正は一九八一年六月ごろから続いていたとみられている。経営効率を重視するあまりの「品質軽視」。そんなものが昭和、平成と受け継がれていたのか。その悪弊の方が伝統となってしまい、暖簾に染み付いていなかったかと疑いたくなる
▼暖簾は風よけだったと書いたが、古い暖簾をはずし、新風で抜本的な立て直しを図るしかあるまい。その暖簾、企業風土ではスズキを愛したユーザーにも「乗れん」と地口まじりに皮肉られよう。
※ 日経が 起-承-転-結、毎日・中日が 起-転-結 の構成です。
限られた文字数での文章作成のモデルになります。
毎日新聞
・ ダイビングの名所として人気の北マリアナ諸島・テニアン島は75年前、太平洋戦争の激戦地だった。島は1週間で攻略され、軍民合わせ1万5000人以上の日本・朝鮮・台湾人らが戦死した。民間人は集団自決だったとの証言もある
▲天皇、皇后両陛下が戦後60年に初の海外慰霊で訪れた隣のサイパン島は、その1カ月前に陥落している。米軍はテニアンに飛行場を造成し、日本本土空襲のB29爆撃機は連日ここから出撃していく
▲今年3月、国の戦没者遺骨収集派遣団がテニアンを調査中、遺骨発掘・鑑定の第一人者である人類学者の楢崎修一郎さんが体調を崩し急逝した。享年60。昨年末大学を退職し、遺骨収集に専念する生活を始めたばかりだった
▲1月ミャンマー、2月マーシャル諸島へ各2週間出かけた疲れがあったのか。米英仏の大学で学び、研究の合間に続けた20回を超える海外遺骨収集体験を昨年まとめた「骨が語る兵士の最期」(筑摩選書)が遺著となった
▲本土を除く太平洋戦争戦没者240万人のうち113万人の遺骨がみつかっていない。楢崎さんは現地踏査を重んじた。埋葬、処刑、戦闘死、餓死など死者たちの最期が分かるからだ。「戦没者を二度戦死させない」が口癖だった
▲少年時代、実家で戦死した伯父たちの遺影を見ながら戦争の本を乱読したという。今月6日、群馬県高崎市で営まれた葬儀では広島の原爆投下を目撃したご両親の姿に参列者の胸が塞がった。原爆搭載機が飛び立ったのもテニアンだった。
日本経済新聞
・ 東京タワーの明かりが消えた。バブルの象徴だった六本木の街が静寂に包まれた。銀座のショーウインドーには白菊や黒いリボン。午前零時、皇居前広場では暗闇のなかで数百人がただ手を合わせて「昭和」を見送った。30年前の、平成が始まるときの東京風景である。
▼昭和天皇の逝去から18時間後の改元だ。当時の新聞を読み返すと、世の中はあの夜、いまでは想像しがたいほどの自粛ムードだったことを思い出す。テレビは追悼番組を流しつづけ、土曜日なのに盛り場は閑散として新しい時代を迎えた。さて、時は流れて「平成→令和」。前回とは正反対の改元フィーバーが列島を覆う。
▼菅官房長官が新元号の額を掲げた直後から令和あやかり商品は続々登場し、5月1日の「令和婚」カップルの婚姻届を受理するのに役所は特別態勢だという。あと2週間。いよいよ到来するその瞬間に向け、お祭り騒ぎの熱はいや増すはずだ。渋谷のスクランブル交差点にはカウントダウンの人々があふれるかもしれない。
▼行きすぎた自粛や沈痛な空気の伴わぬ、こういう明るい改元が実現するとはかつて誰が考えただろう。諒闇(りょうあん)の静けさが社会のすみずみに広がり、カウントダウンはおろか、歓声をあげるのも憚(はばか)られた「昭和→平成」の節目とはことごとく違うのである。もちろん、もっと昔とも違う。走り出すと一色になる国民性を除いて。
中日新聞
・ 店の入り口に掛けられた「暖簾(のれん)」。「暖簾」に暖の字が入っているのはもともと風よけに使われていたためだったからだそうだ
▼言語学者の楳垣実(うめがきみのる)によると、店の入り口に掛けられるようになったのは江戸期とみられ、やがて暖簾そのものが店にとっての信用、伝統、品格のシンボルとなっていく。「暖簾師」なる隠語もあったそうだ。大丈夫そうな品物を見せておいて、売るときは別の怪しげな商品にすり替える。そういう商売人のことだそうだ
▼その商品が大切な家族を乗せ、もし間違いがあれば人の命にかかわる車だったとしたら。そんなことを想像してしまう、スズキの不正検査問題である
▼制動力が不十分なブレーキにも合格のはんこを押し、検査員は無資格だったとは聞いてあきれる。安全、安心を売ってきた大切な暖簾はきずがつくどころではなく、切り刻まれたも同じだろう
▼検査不正は一九八一年六月ごろから続いていたとみられている。経営効率を重視するあまりの「品質軽視」。そんなものが昭和、平成と受け継がれていたのか。その悪弊の方が伝統となってしまい、暖簾に染み付いていなかったかと疑いたくなる
▼暖簾は風よけだったと書いたが、古い暖簾をはずし、新風で抜本的な立て直しを図るしかあるまい。その暖簾、企業風土ではスズキを愛したユーザーにも「乗れん」と地口まじりに皮肉られよう。
※ 日経が 起-承-転-結、毎日・中日が 起-転-結 の構成です。
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