少し前に購入した書籍を紹介します。
今回は、『「関ヶ原」の決算書』山本博文
金がなければ戦はできぬ! だが天下分け目の大いくさで、東西両軍で動いた金は総額いくらになるのか? 『「忠臣蔵」の決算書』に続き、日本史上の大転換点をお金の面から深掘り、知っているようで知らない「関ヶ原の合戦」の新常識を提示する。そもそも米一石は現代なら何円? 徳川家康は本当に儲かったのか? なぜ敗軍に属した島津家がおとがめなしで生き延びたのか? 史上最も有名な戦の新たな姿が浮かび上がる。
これはおもしろい!
戦を経済視点で描いた本。ここでは序章の中から一部紹介します。
・秀吉以前:兵糧米は自前、不足分は略奪による現地調達
・秀吉 :軍役負担者・従者、非戦闘員 全員の兵糧米を支給
大軍の急な移動は、沿道の農家に炊き出させ対価を支払 う。
・秀吉が支給した兵糧米:一人あたり1日5合(今で400円)
(例)関ヶ原の合戦:10万人規模 → 1日4000万円
・金1枚(天正大判;金165g)
→ 天正12年 米26石(約200万円)
天正13年 米30石(約240万円)
米36石(約288万円)
天正17年 米44石(約350万円)
・永楽銭(天正18年)金1枚=18貫文
352万円 ÷ 18000 = 195.5円
(例)秀吉の小田原攻め 総勢20万人
5合 × 20万人 = 1000石(1日)→ 3ヶ月で9万石(72億円)
(実際には50万石の兵糧米を準備)
天正17年10月10日「兵糧に付き条々 写」
一、兵糧奉行に長束正家、その配下に小奉行17人を任命する
一、年内に二十万石の米を受け取り、来春早々、船で駿河の江尻・清水へ運送し、蔵を建てて収 納し、全軍に渡せ。
一、黄金一万枚を受け取り、伊勢・尾張・三河・駿河で米を買いそろえ、小田原近辺の船着き場 に届けておけ
補足 馬二万騎分の飼料を調達しておき、滞りなく与えよ
※ 20万石の米:160億円
黄金一万枚:350億円 値上がりしても30万石にはなる
「小田原陣立書」
一番家康三万騎、二番織田信康一万五千騎、以下十二番の備えで、合計124,010騎。
これは「人」であり、非戦闘員をも含めている。+海上 20,630人、秀吉隊5万人
秀吉以後の文書は、非戦闘員をも含めて、必要な兵糧を表している。
農民出身の秀吉が、非戦闘員を大切にしたことにより、戦を変え、経済力を持った武将が有利になったことがわかりました。
第一章 「関ヶ原」に至るまで
1 豊臣政権と島津氏
本役は20石に1人。島津は22万石なのでざっと1万人。
島津義久は、在京賄料として、播磨に1万石。(役2億4千万円)→ 秀吉は他にも上洛した大名に在京賄料を与えている。
秀吉は島津の領地の検地を行い、約57万石に認定。それにより蔵入地を増やしたが、無役とした。
秀吉の蔵入地を加治木に1万石設定。
島津氏の慶長の役の動員計画(『旧記雑録』より)
○ 1,020石に馬1騎+従者34人まで。計3,230人
○ 500石に馬1騎+従者17人まで。計408人
○ 300石に馬1騎+143騎+従者10人まで。1,430人
○ 徒小侍衆:歩兵 300石人+夫丸(ぶまる:人夫のこと=農民)3人まで。900人
○ 無足衆(下級家臣):歩兵 500人+夫丸2人まで。1,000人
○ 御道具衆(大名直属の鉄砲隊、弓隊) 665人
○ 蔵入地より夫丸2,000人
○ 加子(船員)2,000人 総合計 12,433人 実際の戦闘員は3割
以上の5ケ月分の兵糧 1,522石(1億2,183万円)、
馬272頭 その飼料大豆 618石(1日2升)
この後、秀吉の死、挑戦から撤退、家康が掟破りの婚姻→詫び状、家康が島津に金200枚与える。前田利家の死、三成襲撃計画、三成佐和山に隠居、日向庄内の乱で家康が調停に入る。島津は家康に恩義
こんな感じで続きます。