2024年5月11日(土)、栄中日文化センター主催、「歩いて巡る東海の古城史跡」(2024年4~6月)「伊勢桑名城と城下町散策」へ行ってきました。
講師は七種英康先生です。その様子を、7回にわたって紹介しています。
第4回 本多忠勝
蟠龍櫓の続きから紹介します。
宮宿から海路を経て、再び陸路の東海道に入ります。
東海道の案内パンフです。
画像出典 https://www.city.kuwana.lg.jp/kanko/benrijoho/pamphlet.html
一の鳥居です
お堀 兼 運河の役割を果たしています。
当時の石垣が残っています。
再建された蟠龍櫓は、1階は水門の管理事務所です。
どうせ事務所を建てるなら、外観を東海道五十三次にも登場する幡龍櫓の形にしようとして建てられました。
何とも、粋です。
文字起こししてみましょう。
水門統合管理所の概要
管理所周辺は、城跡や名所旧跡・レクリエーション施設等が整備された公園として、市民や観光客の憩いの場となっています。
揖斐川改修に伴う水門の改築にあたっては、周辺環境を考慮し、陸側および川側からの眺めを阻害しないよう、堤防上部から突出した構造物をなくして景観に配慮した三つの水門、住吉水門・川口水門・三之丸水門が計画されました。 これら三つの水門は高潮警戒時に操作する防潮水門で、 安全性・効率性・迅速性を考慮し集中操作できるよう統合管理所を設置しました。
管理所は、かつて桑名城の隅櫓(すみやぐら)の一つである蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)が建っていたところに位置するため、建物の設計にあたってこの櫓の外観復元を目指すこととなりました。 伊勢湾台風で当初の石垣が失われているなど、 復元のための歴史資料は限られましたが、 絵図等に描かれた櫓の姿や同時代の類例を参考に、往時の姿になるべく近づけるよう推定復元しました。 4間×6間と比較的規模の大きい二層櫓で、元禄14年(1701)に天守が焼失して以降 桑名城と河口のまち桑名を象徴する櫓であったと伝えられています。
蟠龍櫓について
桑名城には、元禄大火後に再建された時点で51の櫓があったと記録されています。
「このなかでも、 川口にある七里の渡に面して建てられていた蟠龍は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルでした。 歌川広重の有名な浮世絵 「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。
櫓がいつ建てられたかは定かではありませんが、現在知られているうちで最も古いとされる正保年間(1644~48) 作成の絵図にも既にその姿が描かれています。 蟠龍の名が文献に初めて表れるのは、享和2年(1802) 刊の「久波奈名所図会」で七里の付近の様子を描いた場面です。 この絵では、 単層入母屋造(たんそういりもやづくり)の櫓の上に「蟠龍」と書かれており、 櫓の形はともかく、この瓦の存在が人々に広く知られていたことを思わせます。
「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。 龍は水を司る聖獣ーとして中国では寺院や廟(びょう)などの装飾モチーフとして広く用いられています。 蟠龍櫓に
ついても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられます。
文化3年(1806)刊の「絵本名物時雨蛤」という書物「臥龍(がりょう)のは当御城門乾(いぬい)櫓上にあり、この瓦名作にして龍影(りゅうえい)水にうつる。ゆへに、 海魚往ずといへり。」とあって、 桑名の名物の一つにこの瓦を挙げています。
蟠龍とは今にも飛び上がろうとする龍のことです。
ここにいました。
宝暦治水の説明です。
宝暦治水に係った資材が書かれています。
明治の改修です。
ここから出入りできます。
その反対側。
三の丸には、以前紡績工場があったという説明です。
本多忠勝像です。
村正の一派である藤原正真作の槍で、天下三名槍のひとつと謳わる蜻蛉切が目立ちます。
避雷針になっています。
今や大人気です。
動画をご覧ください。
【実はみんな三重人(みえびと)なんです】本多忠勝~連戦連勝徳川四天王(桑名市)
桑名市の市街地図がありますが、このまちは忠勝が町割りしたものです。
それが慶長の町割り
関が原の戦いの翌年、徳川四天王のひとりである本田忠勝が十万石で桑名に入りました。
東海道の宿駅が定められ、桑名は海上七里の渡船場がある宿場として指定されました。そう、東海道の最重要地の一つなのです。
忠勝は桑名に入ると町割を開始し、従来からの商人(交易)の町 桑名を城下町に造り替え、いわゆる「慶長の町割」を断行しました。
引用します。
桑名が東海道の宿場町となった慶長6年には、本多忠勝が桑名藩主となりました。 彼は大胆なまちづくりを始め、すべての人を立ち退かせて、新しい道路を作りました。 これを「慶長の町割」と言っています。 そのときに作られた道路は今もほとんど残っており、「慶長の町割」は約400年後の現在も生きています。
出典はここ
1800年ごろの桑名の町割が描かれている絵図 『東海道分間延絵図(東京美術刊行)』から転載
レキトビラ桑名城 巨大城郭なのは関ヶ原の戦いが原因!?
本多忠勝、終焉の地。慶長の町割りで大発展させ、名城をも造った本多忠勝の晩年の手腕。
明日に続きます。
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