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富士周辺五名城と諏訪の旅-4-

2024-03-15 07:15:59 | 取材・旅行

令和6年3月8日~10日まで、富士周辺五名城(山中城、小田原城、石垣山一夜城、甲府城、武田氏館)と諏訪を廻ってきました。

20回にわたって紹介しています。

今回は、山中城3 です。

今回は、 本丸の前編です。

スタートは、この駐車場。上の図では、中央下部、売店の右側のPです。

駐車場は①になります。

トイレ横から北へ向かいます。

②の三の丸堀になります。

案内板です。

文字起こししてみましょう。


三の丸堀


三の丸の曲輪の西側を出丸まで南北に走るこの堀は、大切な防御のための堀である。
城内の各曲輪を囲む堀は、城の縄張りに従って掘り割ったり、敵を掘り残したりして自然地形を加工していたのに対し、三の丸堀は自然の谷を利用して中央に縦の畝を設けて二重堀としている。
中央の敵を境に、東側の堀は水路として箱井戸・尻の池からの排水を処理し、西側の堀は空堀として活用していたものである。
この堀の長さは約一八〇m、最大幅約三〇m、深さは約八mを測る。


長さ180m、幅30mは驚きです。確かに長い!

写真に「田尻の池」と書かれています。その解説板です。

文字起こししてみましょう。


田尻の池

東側の箱井戸と田尻の池とは、一面の湿地帯であったが、山中城築城時、盛土(土塁)によって区切られたものである。
山城では、水を貯える施設が城の生命であるところから、この池も貴重な溜池の一つであったと考えられ、しかも、西側は「馬舎」と伝承されているところから、この地は馬の飲料水・その他に用いられたものと推定される。
築城時の池の面積は約一四八平方メートルであり、あふれた水は三の丸堀に流れ出ていたようである。


馬の飲み水だったのですね。

元西櫓下の堀です。

解説を見てみましょう。

文字起こししてみましょう。


元西櫓下の堀

城の内部に敵が進入するのを防ぐため人工的に土地を深く掘り下げたものが堀である。
掘りあげた土は曲輪の中へ運び、平らにならしたり土塁に積んだりするのに用いられる。
山中城では、曲輪の四周は大体堀で囲まれている。堀の深さと幅とは地形と曲輪の重要度に深く関連している。
また、山中城の堀に、石垣が用いられていないということは大きな特色である。
ここは堀底に近いが、四百年前はローム層が露出し、もっと急斜面であった。


土橋の説明です。

文字起こししてみましょう。


土橋

土橋は城(曲輪)の虎口(入り口)の前を通路だけ残してその左右に堀を掘って城への出入りの通路としてつくられる。
この土橋から西の丸へ入るには、土橋を渡って正面の土塁の下を左へ折れ、西の丸南辺からのびてくる土塁との間の細い上り坂の通路を通り、更にこの二つの喰い違い土塁に挟まれた通路に設けた木戸を通る。
この土橋は第一の関所であり、また高い方の堀の水を溜めておくための堤防でもある。


次の航空写真の③の下に橋があります。二の丸橋で、これは木橋です。

橋は土橋か木橋が使われ、木橋は、守りの際には落とされます。

ブルーシートがかけられています。⑥のところです。

その理由は

すなわち、これらの堀は、本来の堀に土をかぶせ、芝を植えて流出を防いでいるのです。

ここは、かぶせた土が台風で流れ出て、本来の土(関東ローム)が露出しているのです。

これら見られるのは、ある意味ラッキーですね。

西の丸の南の畝堀です。

④の西の丸です。

解説板です。

文字起こししてみましょう。


西の丸

西の丸は三四〇〇㎡の広大な面積をもつ曲輪で、山中城の西方防備の拠点である。
西端の高い見張台はすべて盛土をつみあげたもので、ここを中心に曲輪の三方をコの字型に土塁を築き、内部は尾根の稜線を削平し見張台に近いところから南側は盛土して平坦にならしている。
曲輪は全体に東へ傾斜して、東側にある溜池には連絡用通路を排水口として、雨水等が集められるしくみである。
自然の地形と人知とを一体化した築城術に、北条流の一端をみることができる。


この説明にある見張り台です。

ここにも解説がありました。

読めますね。

見張台に上って、北を見てみました。

愛鷹連山が見えます。その右に富士山が見えるはずです。本来ならば・・・・・

リーフレットには載っていました。天候にはかないません。

板を見ると、障子堀の一部が見えます。

西櫓です。

障子堀の解説です。

これは読みたいですね。


障子堀

後北条氏の城には、堀の中を区画するように畝を掘り残す、いわゆる「障子堀」という独特の堀が掘られている。
いる。
西ノ丸と西櫓の間の堀は、中央に太く長い畝を置き、そこから交互に両側の曲輪にむかって畝を出し、障子の桟のように区画されている。

また、中央の区画には水が湧き出しており、溜まった水は南北の堀へ排水される仕組みになっている。このように水堀と用水池を兼ねた堀が山城に作られることは常に珍しく、後北条氏の城の中でも特異な構造である。


西櫓には建物跡がありました。

「後北条氏の角馬出」の解説です。

これも読みたいですね。


後北条氏の角馬出

戦国時代の城で、二つの虎口(出入り口)と一つの広場が組み合わされたものを特に「馬出」と呼んでいる。
馬出は、戦国時代の永禄年間に完成したと考えられているが、甲斐武田氏の城では、馬出の土塁と堀を丸く造ったので「丸馬出」と呼ばれ、堀が円弧を描くので通称「三日月堀」である。
これに対して、後北条氏の馬出は、その形から「角馬出」と呼ばれている。
西ノ丸から障子堀をこえて、前方に突き出たこの西櫓 (広場)を四角(長方形)に造り、それに沿って土塁と堀を巡らしている。
防御する時は、西ノ丸の虎口を中心に、攻撃に出る時には堀の外側の広場(西櫓)を起点として、堀の南端の土橋と北端の木橋を用いる。
この馬出の築造により、攻める機能と守る機能が明らかに区分された。


見事な障子堀です。

西櫓堀の説明です。

これも読みたい!


西櫓堀

堀内には、ほぼ九メートル間隔に八本の敵が、堀の方向に対して直角に作られている。畝はローム層を台形に掘り残して作ったもので、高さは堀底から約二メートル、頂部の幅は約○・六メートルで丸みを帯びている。
畝の傾斜度は五〇度から六〇度と非常に急峻である。平均した堀底の幅は二・四メートル、長さは中央で九・四メートル、堀底から西櫓までの高さは九メートルもある。
現在は植栽されているが、四百年前はすべりやすいローム層が露出し樹木は全くなかったので、もし人間が堀に落ちれば、脱出することは不可能だったと推定できる。


碑がありました。

動画を見てみましょう。

【城めぐり】障子堀が美しい 山中城 静岡県【攻略ルート】

日本100名城 山中城 自然と調和した美しい障子堀 静岡県 Yamanaka Castle

「小沼みのりとみしまめぐり」箱根西麓編 史跡山中城跡/日本100名城

今日はもう1本行きましょう! 富士周辺五名城と諏訪の旅-5-へ


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