あなたも社楽人!

社楽の会の運営者によるブログです。社会科に関する情報などを発信します。

徳川光友は将軍“世継ぎ”だった 家光に男児生まれ消滅

2010-11-13 06:43:14 | 歴史関連情報
徳川光友は将軍“世継ぎ”だった 家光に男児生まれ消滅

おもしろいニュースが中日新聞夕刊にありました。 

徳川光友は将軍の世継ぎだったというものです。

光友は、初代藩主・徳川義直の長男です。家光の「光」をもらっています。

筆頭御三家ですから、当然世継ぎ候補ですが、文書として見つかりました。

記事中に出てくる「初音の調度」とは、寛永16年(1639)9月22日、三代将軍家光の娘千代姫が、光友に婚嫁する際持参した調度です。


--------以下引用--------

徳川御三家筆頭の尾張徳川家の世継ぎ、徳川光友(1625~1700年、後に2代藩主)が満13歳で、3代将軍家光の一人娘で生後12カ月の千代姫と婚約した際、将軍家に男子が生まれない場合は、幕府が「天下(次期将軍)」を光友に譲る方針だったことが、将軍側近の旗本の書状で分かった。

 徳川美術館(名古屋市東区)の小池富雄企画情報部長が、山口県文書館が収蔵する毛利家の藩政文書から“秘史”をあぶり出した。



 2歳で嫁入りした千代姫のために製作された国宝「初音の調度」(同美術館所蔵)は、大名婚礼調度の最高峰として知られる。一族への嫁入り道具にしては絢爛(けんらん)豪華すぎるという指摘があったが、小池氏は「“4代将軍の妻”にふさわしい調度として製作されたことが分かり、謎が解けた」としている。

 この書状は、秀忠、家光の2代に側近として仕えた3000石の旗本、安倍(後に阿部と改名)正之が1638(寛永15)年2月21日付で、長州・萩(山口県萩市)にいた長州藩主の毛利秀就に送った奉書紙(縦34・9センチ、横51センチ)。

山口県文書館所蔵の安倍正之より毛利秀就あて書状。上段中央部に「万一若君様無御座(まんいちわかぎみさまござなく)候ハ々(そうらわば)右兵衛様(徳川光友の当時の官位)ニ天下可被成御譲(おゆずりなられべく)候」と注目の記述がある


 毛利家と親しい関係にあった安倍は、前日あった光友・千代姫の婚約発表を速報。将軍に将来も若君が生まれなかった場合は、次期将軍を光友に継がせる幕府の「上意」を「風聞」したと強調し、諸大名に後れを取らずに祝いの使者を参上させるよう助言している。

 秀就の妻みつ(家康の孫)が江戸から萩の夫にあて、同様に婚約を急ぎ知らせる同21日付書状もあった。

 しかし、千代姫結婚の2年後、将軍在位19年目に家光に跡取り息子が誕生。小池氏は「将軍の後継が決まり、この間の事情は歴史の表舞台から消された」とみる。

 書状は13日開幕する同館特別展「国宝 初音の調度」(中日新聞社主催)で展示する。この調査結果は同日午後1時30分、美術館講堂である公開シンポジウムで発表する。

 【山口県文書館の吉田真夫専門研究員の話】 3万2000点の膨大な毛利家文書の中から、尾張藩関係分をデータベースから探し出し、内容に分け入って歴史の行間を読み解いたといえる。外様大名の毛利家は幕府の情報収集に努め、安倍正之は幕府とのパイプ役だったとみられる。
               中日新聞夕刊 2010年11月12日 夕刊

--------引用終わり-------

毛利家の文書から見つかったというのがミソです。

徳川美術館の特別展が楽しみです。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。