中曽根さんがなくなりました。
国鉄、電電公社、専売公社を変えた、すごい人でした。
朝日新聞
・ 桜を見る会 公文書管理 教訓どこへ
・ 暴力団員射殺 抗争激化をくい止めよ
読売新聞
・ 中曽根氏死去 戦後史に刻む「大統領的」首相
・ 再犯防止対策 出所後も切れ目ない支援を
毎日新聞
・ 中曽根元首相が死去 戦後政治の針路を変えた
・ 初の日印2プラス2 地域の安定促す枠組みに
日本経済新聞
・ 「中国製」不信の根にある異質の法体系
・ 現実を直視した中曽根政治
産経新聞
・ 中曽根元首相死去 指導力発揮の政治貫いた11.30 05:00
・ パワハラ指針 職場の共通認識を育てよ
中日新聞
・ 中曽根氏死去 権力の魔性を自戒して
・ 首里城再建 県民の声を生かさねば
※ 5社が中曽根氏です。
読売です。
政権運営で特筆すべきは、「戦後政治の総決算」を掲げ、多くの改革を成し遂げたことだろう。
内政では「聖域なき行財政改革」に取り組み、国鉄、電信電話、専売の3公社の民営化を断行した。トップダウンの手法で政策を決定しつつ、時に民間の有識者も活用した。大統領的な手法はその後、多くの政権が踏襲している。
外交面で、今日に至る強固な日米同盟の礎を築いた功績は大きい。首相就任当初から「日米は運命共同体」と強調し、当時のソ連に対して、日米が共同歩調を取る姿勢を鮮明にした。
ロナルド・レーガン米大統領とは親密な関係を築いた。「ロン」「ヤス」と日米首脳がファーストネームで呼び合うようになったのも、この頃からである。
中日です。
八〇年、鈴木内閣で行政管理庁長官に就いた中曽根氏は翌年、第二次臨時行政調査会(第二臨調)を立ち上げた。会長に元経団連会長の土光敏夫氏を起用するなど、民間の知恵と力を借りながら、行財政改革に取り組む道を選んだ。
中曽根氏にとって行管庁長官就任は必ずしも本意ではなかったようだが、第二臨調が結果的に民営化路線の起点となった。
中曽根政権は米国ではレーガン大統領、英国ではサッチャー首相の時代と重なり、民営化や民間活力導入は当時の潮流でもある。富の偏在や格差拡大を招いたとの批判を後に受けるが、行政機構の肥大化に歯止めをかけるには当時、現実的な選択だったのだろう。
外交面では、鈴木内閣当時に対日不信が高まっていた米国との関係を、レーガン氏と親密な関係を築くことで修復したが、特筆すべきは、訪米直前に訪韓し、日韓関係修復に努めるなどの重層的外交だ。後に靖国神社公式参拝で悪化したとはいえ、中国とも一時、胡耀邦総書記との家族ぐるみの交流を通じて緊密な関係を築いた。
中曽根氏は、首相の一念は「一種の狂気だ」と、自著『自省録』(新潮文庫)などで指摘している。本気になれば大方のことは実現できるとの意味だという。
同時に首相たるもの「権力の魔性を自戒せよ」とも述べている。権力が政治家を独善的な道に走らせることを警戒せよとの戒めだ。
今、政権を担う安倍晋三首相は中曽根政権を超える長期政権になったが、権力の魔性に取りつかれてはいまいか。先人の警鐘に耳を傾け、常に自戒すべきである。
偉大な人でした。
国鉄、電電公社、専売公社を変えた、すごい人でした。
朝日新聞
・ 桜を見る会 公文書管理 教訓どこへ
・ 暴力団員射殺 抗争激化をくい止めよ
読売新聞
・ 中曽根氏死去 戦後史に刻む「大統領的」首相
・ 再犯防止対策 出所後も切れ目ない支援を
毎日新聞
・ 中曽根元首相が死去 戦後政治の針路を変えた
・ 初の日印2プラス2 地域の安定促す枠組みに
日本経済新聞
・ 「中国製」不信の根にある異質の法体系
・ 現実を直視した中曽根政治
産経新聞
・ 中曽根元首相死去 指導力発揮の政治貫いた11.30 05:00
・ パワハラ指針 職場の共通認識を育てよ
中日新聞
・ 中曽根氏死去 権力の魔性を自戒して
・ 首里城再建 県民の声を生かさねば
※ 5社が中曽根氏です。
読売です。
政権運営で特筆すべきは、「戦後政治の総決算」を掲げ、多くの改革を成し遂げたことだろう。
内政では「聖域なき行財政改革」に取り組み、国鉄、電信電話、専売の3公社の民営化を断行した。トップダウンの手法で政策を決定しつつ、時に民間の有識者も活用した。大統領的な手法はその後、多くの政権が踏襲している。
外交面で、今日に至る強固な日米同盟の礎を築いた功績は大きい。首相就任当初から「日米は運命共同体」と強調し、当時のソ連に対して、日米が共同歩調を取る姿勢を鮮明にした。
ロナルド・レーガン米大統領とは親密な関係を築いた。「ロン」「ヤス」と日米首脳がファーストネームで呼び合うようになったのも、この頃からである。
中日です。
八〇年、鈴木内閣で行政管理庁長官に就いた中曽根氏は翌年、第二次臨時行政調査会(第二臨調)を立ち上げた。会長に元経団連会長の土光敏夫氏を起用するなど、民間の知恵と力を借りながら、行財政改革に取り組む道を選んだ。
中曽根氏にとって行管庁長官就任は必ずしも本意ではなかったようだが、第二臨調が結果的に民営化路線の起点となった。
中曽根政権は米国ではレーガン大統領、英国ではサッチャー首相の時代と重なり、民営化や民間活力導入は当時の潮流でもある。富の偏在や格差拡大を招いたとの批判を後に受けるが、行政機構の肥大化に歯止めをかけるには当時、現実的な選択だったのだろう。
外交面では、鈴木内閣当時に対日不信が高まっていた米国との関係を、レーガン氏と親密な関係を築くことで修復したが、特筆すべきは、訪米直前に訪韓し、日韓関係修復に努めるなどの重層的外交だ。後に靖国神社公式参拝で悪化したとはいえ、中国とも一時、胡耀邦総書記との家族ぐるみの交流を通じて緊密な関係を築いた。
中曽根氏は、首相の一念は「一種の狂気だ」と、自著『自省録』(新潮文庫)などで指摘している。本気になれば大方のことは実現できるとの意味だという。
同時に首相たるもの「権力の魔性を自戒せよ」とも述べている。権力が政治家を独善的な道に走らせることを警戒せよとの戒めだ。
今、政権を担う安倍晋三首相は中曽根政権を超える長期政権になったが、権力の魔性に取りつかれてはいまいか。先人の警鐘に耳を傾け、常に自戒すべきである。
偉大な人でした。