いよいよ関ヶ原シリーズも今回が最終回。なぜ徳川の時代になったか、その要因を考える5回目です。
家康は何度も名前を変えていますが、ここでもすべて「家康」で統一します。
(5)三河武士
愛知県の中でも、尾張人と三河人の気質の違いがよく話題になります。個人レベルではともかく、学校の雰囲気はずいぶん違うようです。
みなさんはどう思われるでしょうか?
実際に調べたわけではありませんが、尾張の信長・秀吉、三河の家康。このイメージが影響を与えているのかもしれません。
家康は、8歳で父広忠がなくなり、織田から今川の人質として過ごし、19歳で戻るまで、実質的に城の主はいませんでした。
その間の家臣は、まさに臥薪嘗胆。
今川の捨て石になり、禄も無い中で、鳥居忠吉は密かに武具や兵糧・金銭を備蓄していました。家康の帰りを待って…。
岡崎の井田城址には「三河武士発祥の地」と書かれた碑があり、「堅忍不抜 勇猛果敢の精神はここで培われ…」と書かれています。
大敗した三方原の戦いでは、信玄の重臣・馬場信房は、合戦中に討たれた者はことごとく仰向けに、そして撤退時に命を落とした者はみなうつ伏せになっていたのを見て、「一人も遁走せしはなし」と褒め称えています。
なぜ、そのような三河武士を輩出したのかを論じるスペースはありませんが、その三河武士魂が、260年間日本を治めたのは事実であり、日本人の国民性にも、少なからず影響を与えているのかもしれません。
少なくとも、家康自身には、三河武士魂が染みつき、自身の経験を生かして天下に少しずつ近づき、徳川の時代を切り開いていったのでした。(終わり)
今回のシリーズは、「関ヶ原の戦い」を教材化する前の段階として、その背景を考えるための“教材研究”としてはじめたものです。
目に見える「現象」から入っていったのですが、結局、“人格、戦法、三河武士”と、目に見えない部分(価値?)へ論が進んでしまいました。
目に見える現象から、目に見えない部分を導き出す事が、教材研究なのかもしれません。
ぜひ、みなさんも、テーマを決めて教材研究を楽しんでみてください。
家康は何度も名前を変えていますが、ここでもすべて「家康」で統一します。
(5)三河武士
愛知県の中でも、尾張人と三河人の気質の違いがよく話題になります。個人レベルではともかく、学校の雰囲気はずいぶん違うようです。
みなさんはどう思われるでしょうか?
実際に調べたわけではありませんが、尾張の信長・秀吉、三河の家康。このイメージが影響を与えているのかもしれません。
家康は、8歳で父広忠がなくなり、織田から今川の人質として過ごし、19歳で戻るまで、実質的に城の主はいませんでした。
その間の家臣は、まさに臥薪嘗胆。
今川の捨て石になり、禄も無い中で、鳥居忠吉は密かに武具や兵糧・金銭を備蓄していました。家康の帰りを待って…。
岡崎の井田城址には「三河武士発祥の地」と書かれた碑があり、「堅忍不抜 勇猛果敢の精神はここで培われ…」と書かれています。
大敗した三方原の戦いでは、信玄の重臣・馬場信房は、合戦中に討たれた者はことごとく仰向けに、そして撤退時に命を落とした者はみなうつ伏せになっていたのを見て、「一人も遁走せしはなし」と褒め称えています。
なぜ、そのような三河武士を輩出したのかを論じるスペースはありませんが、その三河武士魂が、260年間日本を治めたのは事実であり、日本人の国民性にも、少なからず影響を与えているのかもしれません。
少なくとも、家康自身には、三河武士魂が染みつき、自身の経験を生かして天下に少しずつ近づき、徳川の時代を切り開いていったのでした。(終わり)
今回のシリーズは、「関ヶ原の戦い」を教材化する前の段階として、その背景を考えるための“教材研究”としてはじめたものです。
目に見える「現象」から入っていったのですが、結局、“人格、戦法、三河武士”と、目に見えない部分(価値?)へ論が進んでしまいました。
目に見える現象から、目に見えない部分を導き出す事が、教材研究なのかもしれません。
ぜひ、みなさんも、テーマを決めて教材研究を楽しんでみてください。