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8月17日は新聞休刊日

2015-08-17 05:00:38 | 社説を読む
今日は新聞休刊日なので、昨日のコラムを見てみましょう。

朝日新聞
・ 歴史に触れて欲しいという親心だろうか。公開中の映画「日本のいちばん長い日」を見に行くと、10歳前後とおぼしき男子を連れたお母さんがいた。少年には重いテーマだが、先の戦争に関心を持ち、学ぶきっかけになればいいと思った

▼降伏か、一億玉砕も覚悟の徹底抗戦か。70年前の夏に繰り広げられた政治劇である。「聖断」を下した昭和天皇をはじめ、鈴木貫太郎首相、阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣らを軸に、極限的な攻防が続く。彼らの人間的な、また家庭的な側面も彩り豊かに描き、分厚い仕上がりになった

▼原作の同名ノンフィクションを書いた半藤一利さんが映画のパンフに言葉を寄せている。戦争を始めることはある意味で簡単であるが、終えることは本当に難しい、と。まさに戦争の恐るべき本質を教えられる作品だ

▼原田眞人(まさと)監督の言葉もずしりと響く。「『国を残すために軍を滅ぼした』という姿勢を今後も継承してもらいたい」。歳月が過ぎ、敗戦の記憶が遠のいていくことへの危機感に共鳴する

▼きのう、天皇陛下は全国戦没者追悼式で「さきの大戦に対する深い反省」を述べた。追悼式の「おことば」では初めてという。「平和の存続を切望する国民の意識」にも新たに触れ、それに支えられて我が国は今日の平和と繁栄を築いてきたとした

▼今年の年頭、満州事変以後の歴史を学ぶ大切さに言及したことと併せ、強い思いが伝わる。平和を切望する意識が、映画館で見かけた少年らの世代にも引き継がれてほしい。


毎日新聞
・ 明治初めに来日した米動物学者モースは赤痢(せきり)やマラリアなどの患者が少ないと聞いて驚いた。理由を調べて「すべての排出物質が都市から運び出され、農園や水田に肥料として利用されることに原因するのかも知れない」と滞在記に書いている

▲近世ヨーロッパは汚物を道や川に捨てて伝染病が猛威をふるった。徳川の時代、100万都市とされる江戸では、大量に出たし尿を近郊の農家に売ったり、米や野菜と交換したりした。し尿を豊かな土壌づくりに役立てる循環型社会が築かれていた

▲戦後になると化学肥料の普及で、し尿は海に捨てられ、海水浴場の遊泳禁止が相次いだ。高度成長期には生活排水に含まれるリンや窒素による富栄養化で赤潮(あかしお)が大発生した。その苦い経験から下水道が整備され、今では下水の処理過程で出る汚泥をエネルギーや肥料として再生利用する研究が進められている

▲神戸市は汚泥に含まれるリンを原料にした配合肥料を企業と共同開発した。先月、この肥料で育ったスイートコーン約4000本が収穫された。肥料の市販化を目指してキャベツやレタスなど試験栽培の種類も増やしている

▲リンは肥料の3大要素の一つだが、日本は全量を輸入に頼る。リン鉱石の産出国が中国や米国などに限られ肥料価格が高騰したこともある。そのため、リンが多く流れ込む地下水路は「都市鉱山」と注目を浴びる宝の山だ

▲コスト高など課題はあるが、下水資源を作物の栽培に活用する取り組みは全国の自治体に広がりつつある。都市と農村をつなぐ循環システムを再生し、江戸時代に培った地産地消の食文化を大きく育てたい。


日本経済新聞
・ 皇居の宮殿に「石橋(しゃっきょう)の間」がある。広さ245平方メートル。中央の壁に前田青邨が同名の能をモチーフに描いた絵が3枚掛かることから名をとった。ここで、1975年10月31日、昭和天皇が記者会見に臨まれた。初めての米国へのご訪問を終えて、感想を述べられたのだ。

▼関連で、長い在位中うれしかったことを聞かれ「終戦後、国民が努力して日本の復興ができたこと」を挙げられた。このときから、さらに40年続いてきたこの国の「戦後」。天災や大事故、経済的ショックに阻まれながら、平和を追い求めずして豊かさや幸せは来ない、という価値観を、世界へ証し続けた歴史でもあろう。

▼能「石橋」は後半の獅子の乱舞が歌舞伎などの材としても有名だが、前半では、理想へと踏み出す選択や決断のあり方をも問うている気がする。寂昭法師が、文殊菩薩(ぼさつ)の住む浄土へかかる橋のたもとに至る。現れたのは謎の童子。悟りを前に気がせく法師に童子は「橋は幅一尺。下は地獄ほど深い」と何度も危うさを説く。

▼昨日、全国戦没者追悼式で天皇陛下は、我が国の平和と繁栄は「平和の存続を切望する国民の意識に支えられた」との趣旨のお言葉を述べられた。大きな犠牲の上に、悲壮な思いで踏み出した70年前の一歩。重い選択、苦い決断を積んでたどり着いた今の足元を見定め、「戦後」の灯を絶やさずに未来への橋を目指したい。


産経新聞
・ 酸鼻極まるフィリピンの戦場で、野戦病院に送られた傷病兵たちの間に「軍旗の下に帰ろう」の合言葉が行き交った。日本の非勢が明らかな、先の大戦末期の話である。戦いに殉じる腹を固めた人たちにとって、ともに砲煙をくぐり抜けた軍旗は最後のよりどころであったろう。

 ▼惨禍の跡を残す軍旗の一つに、セブ島で終戦を迎えた歩兵第57連隊(佐倉)のものがある。米軍の目を逃れるため、隊員たちは細かく切り分けて国に持ち帰ったという。元第2大隊長の長嶺秀雄氏が『戦場 学んだこと、伝えたいこと』(並木書房)に記していた。

 ▼隊旗は昭和55年に復元され、今は靖国神社内の遊就館に眠っている。思えば日本軍はフィリピンでおよそ50万人の戦死者を出した。長嶺さんも砲弾や銃弾の破片を体の中に残して生還した。隊旗は異境の土となった人たちの無念と、激戦の痛みを伝える証人である。

 ▼柳田国男は『先祖の話』にこう記している。「国の為(ため)に戦つて死んだ若人だけは、何としても之を仏徒の謂(い)ふ無縁ぼとけの列に、疎外して置くわけには行くまいと思ふ」と。果たして戦後世代は英霊の安らかな眠りを守れているか。思案する度、恥じ入るほかない。

 ▼「戦後70年」の節目の日に、安倍晋三首相の靖国参拝はかなわなかった。首相が14日に出した戦後談話は、「謝罪外交」に終止符を打つ誓いとも受け取れただけに、残念である。われわれが引き継ぐべきものは英霊への不断の祈りであり、平和の誓いではないのか。

 ▼犠牲になったアジアの人々には、慎んでこうべを垂れたい。しかし、平和国家としての戦後70年の歩みに胸を張ることより、中韓の顔を立てることがこの国の未来のためになるとは、とても思えないのである。
  

中日新聞
・ 映画「社長シリーズ」「駅前シリーズ」などの俳優三木のり平さん(一九二四~九九年)の元に、召集令状の赤紙が届いたのは四五(昭和二十)年の夏だった

▼国のために死ぬ覚悟さえ固めていたが、結局、兵隊にとられることはなかった。入隊予定日が終戦の三日後の八月十八日だったためである。「戦争に行かなくていいのか」

▼七十年前の終戦日を国民はどう受け止めたか。<戦争は終わった 私は心中「シメタ!」と思った>(小沢昭一さん『わた史発掘』)<終わったーっ 生きているぞ 生きのびたんだ>(手塚治虫さん『紙の砦(とりで)』)

▼戦争終結を知った喜びや安堵(あんど)感は想像できる。されどその夜、じわじわと襲ってきたのはむしろ「これからどうなるか」の不安だったのではないか

▼実際、終戦直後は戦時中よりも食糧や生活物資の入手は困難で、焼け跡での食うや食わずの生活が続く。終戦、そしてその後の平和な日本。これはあまりにはしょり過ぎた歴史であり、焼け跡での壮絶な苦しみが十五日以降に待つ。それも、やはり戦争の「罪科」なのである

▼のり平さんは十五日夜、ひそかに家を出て隅田川にある荷物を沈めた。千人針や軍人手帳などを詰めた袋。これからやって来る米兵に見つかれば、殺されると考えた。のり平さんの得意の文句ではないけれど戦争が終わっても平和は「パーッと」は来なかった。


※ こと、靖国になると、産経新聞だけが突出していませんか。

 16日のコラムだけを見ていてもわかります。

 どうぞ、読み比べてみてください。

 

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