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9月12日は新聞休刊日なので・・・

2011-09-12 05:55:14 | 社説を読む

震災から半年、9・11から10年の昨日は、いろいろな行事や、テレビでは特集番組が組まれました。

今朝は新聞休刊日なので、昨日のコラムを見てみましょう。

朝日新聞
天声人語
その少年の死は今も忘れがたい。イラク戦争の始まった2003年、取材に入ったバグダッドでのことだ。14歳ながら病弱な父親に代わって働き、幼いきょうだいを養っていた。荷車でガソリンを配達中、米軍車両を狙った爆発に巻き込まれた▼ガソリンは火の玉となって少年を包んだという。「アメリカに殺されたようなものだ」。葬儀の日に訪ねると、身内は口々に米国への恨みを言った。痛ましさとともに、憎悪の種がまた一粒まかれたとの思いに心は沈んだ▼超大国を狙った9・11テロからきょうで10年になる。あのとき世界を戦慄(せんりつ)させたのは、一体どれほどの憎悪が、かくも激しい破壊を引き起こしたのか、という恐怖だったろう。脅威は今、広まりこそすれ解けてはいない▼テロの直後、ニューヨーク大の教授が「社会が自由や寛容を失ったら、それこそテロリストを勝利させることになる」と警鐘を鳴らしていた。だが愛国心はあおられ、不寛容は加速し、イスラムへの敵意は尖(とが)っていった▼ブッシュ政権は「対テロ戦争」の正義を唱えた。しかし正義の対岸には悪ではなく、別の正義があるばかりだった。そして憎悪は増殖し、より多様化したテロの脅威に世界はいらだち、内向きに閉じて身構える▼きょう世界で湧く追悼の念は、テロ犠牲者だけでなく、戦場の国々の、おびただしい無辜(むこ)の死者にも捧げられるべきだろう。テロ許すまじ。私たちの決意は、いかなる理不尽な死も許さない思いと一心同体のはずである。

 
読売新聞
編集手帳
〈病院に運ばれる途中、突然思ったんです。どうして私ひとりだけが、って〉。北タワーの86階から大勢の人と励まし合って階段を下りた男性は、回想の最後にそう言った◆〈ケガはありませんでした。痛みはもっと別のところにあったんです。今でも。心の内側に。ひどく痛いんです、それが〉。南タワー地下の管理センターで、ぎりぎりまで悲鳴交じりの電話を受けていた女性の言葉だ◆ニューヨークの摩天楼を襲ったテロの1年後に出版された「マンハッタン、9月11日/生還者たちの証言」(中央公論新社)より引いた。登場する人たちの“痛み”は10年後の今、少しでも癒えただろうか◆多くは大惨事の中で助かった幸運に感謝し、今後の人生を無駄にできない、と前向きに語ってもいる。だが、直前まで一緒にいた多数の友人知人を失ったつらさは、想像を絶する◆テロと天災の違いはあるものの、きょうはさらに、東日本大震災の津波に襲われた人たちのつらさもまた――と、想(おも)いを連ねずにいられない。〈9・11から10年〉の日が〈3・11から半年〉と重なるのは無論、偶然に過ぎないのだけれど。

 

毎日新聞
余録:大震災半年
がれきを見つめながら、東京からやってきたボランティアの男性は神妙な顔をしていた。土の中で何かがくすぶっている。そんなにおいが鼻孔から離れないという▲静寂について話すのは埼玉の支援者である。震災から3週間目のころ、障害者の安否確認のため全戸をしらみつぶしに歩いた。新たな遺体が見つかると福祉避難所にも知らせが届いたが、いつも異様に張り詰めた空気が漂う。その静寂の正体が気になった▲理由は、避難所で働いていた地元の福祉職員だった。市役所を訪れた時に被災し、そのまま三日三晩被災者を救援した。家族が車ごと津波にのまれたことは後で知った。幸い妻は助かったが、3歳と1歳の子の行方がわからない。それでも仕事から離れられず、がれきの野に障害者を捜し回った。心中を察してであろう、子どもや遺体の話題になると同僚の誰もが沈黙した▲幼いころから連なる記憶とは違って、悲しみや恐怖に襲われた場面がフラッシュをたいた写真のように残ることがある。細部まで長く消えない「フラッシュバルブ記憶」という。あの日から半年が過ぎた。被災者だけでなく支援に入った人々の脳裏にも焼き付いた記憶がある▲死者と行方不明者は約2万人。今も8万人以上が避難生活をしている。復旧とともに被災地のニーズは刻々と変わる。「もはや職員を派遣するだけでは無理だ」。埼玉の支援者は地元自治体の要請を受け、被災地に相談支援事業所を設立することになった▲あの若い福祉職員も一緒に働く予定だ。まだ1歳の子は見つからないが、酒を飲むと子どものことを少し話すようになったという。

  
日本経済新聞
春秋
国連を「田舎の信用組合」にたとえた防衛庁長官がいた。かと思うと「南京大虐殺はでっちあげだ」と言い放った法相もいた。政治家の失言暴言は今に始まったことではなく、それで辞めた大臣が何人いよう。死屍(しし)累々(るいるい)といってもいい。

▼とはいえ、おなじ舌禍でもいよいよ程度が低くなってきた、と書けば歴代の先生たちをかばいすぎか。一昔前までは、歴史認識や国のあり方についての過激な物言いやら危ない比喩やらがよく問題になった。ところが近ごろの放言ときたら、いわば軽口、おふざけ、毒づきのたぐいだ。はっきり言えば幼稚である。

▼まずまずのスタートだった野田内閣が、いきなりつまずいた。国会が始まりもしないうちに経産相辞任に追い込まれた鉢呂さんの件だ。原発事故の被災地をまわって「死の町」と表現したのも軽率だが、報道陣への「放射能つけてやろうか」はもう情けない限り。子どもが口に出したって厳しく叱らねばならない。

▼こんなことを、いつまで繰り返すのだろう。どうしてこんな人が大臣になったのだろう。そして何よりも、こんな人を大臣に据えたのだろう。昔の失言居士たちでさえ、あきれているかもしれない。きょうであの日から半年。なのに、あまりにも荒涼たる政治の風景を見せつけられている私たちだ。ただ天を仰ぐ。


 
産経新聞
産経抄 9月11日
「十年一昔」という。「十年一日」という言葉もある。漢字で書くと一字違いだが、意味は正反対に近い。「十年一昔」は、10年たてば「昔」といえるほど世の中の移り変わりが激しいことである。「十年一日」は10年たっても何も変わらない、進歩のなさをいう。

 ▼9・11同時テロから10年を迎えた米国の人にとっては「十年一昔」の思いだろう。この間にアフガンやイラクで戦い、リーマン・ショックという経済危機にもさらされた。中国やロシアとの外交では神経をすりへらされる。政府の首脳にとって休まることのない10年だった。

 ▼日本はといえばこの間、米国同様に政権交代があり、計6回も首相が代わった。中国などの脅威や経済危機も味わい、大震災にも見舞われた。それでいて、国を守る意識や危機感には少しも前進が見られない。こちらはむしろ「十年一日」のようである。

 ▼米国の「テロとの戦い」が、日本の安全にも直結する。「9・11」以来学んだはずのそのことがなかなか浸透しないように思えるからだ。羽田空港の航空管制官が米大統領専用機や米軍偵察機の飛行計画などの画像をネット上に流出させた事件はその表れだ。

 ▼飛行計画は過去のものでも、次回のルートを推測できる。というからネット流出はテロ防止にも重大な影響を与えかねない。これでは米国内に「そんな日本をなぜ守ってやらなければならないのか」という声が出ても不思議ではない。

 ▼管制官はれっきとした国家公務員だ。それが「知人に見せたい」というだけの理由で、重要機密を流したのである。それも国家意識が希薄で日米安保に後ろ向きな政権が続いてきた中で、起きるべくして起きたのかもしれない。

 
中日新聞
中日春秋
よほど人の気を緩ませるような甘い声だったに違いない。半身が鳥、半身が女性というギリシャ神話の魔女セイレーンは地中海を行く船を美声で誘惑、難破させることしばしばだったという

▼その名に由来するのだから、気の緩みを戒める意味も、サイレンにはあるのだろう。岩手県大船渡市が毎月二十四日正午に鳴らしてきた津波警報塔のそれも、しかり。二十四日は一九六〇年五月、チリ地震津波で同市にも甚大な被害が出た日だ

▼だが、今月から十一日に変更する。無理もない。あの大津波は六〇年の津波とは桁違いの犠牲者を出した。大震災からまる半年となる今日正午に鳴るはずのサイレンは、悲痛な“弔歌”としても響くだろう

▼被災地の復興は進むが、行方不明者はなお四千人以上。そのご家族は無論、まだ生活立て直しの足掛かりをつかめぬ人にとっては、半年も「区切り」にはなるまい

▼少し前、岩手出身の葬送ジャーナリスト碑文谷創(ひもんやはじめ)さんが本紙にこう書いていた。「(震災から)一カ月もたたないうちに早くも『災後』という言葉が出てきたのには驚いた…今でも思う。今は『災後』ではなく『災中』であると」

▼被災地への思いも、自然災害への畏れも、福島の事故に起因する原発への恐怖も、区切りをつけるには早すぎる。私たちは、まだまだ長い「災中」を生きる。心にも、サイレンが必要だ。


 
※ コラムは、社でも最も筆の立つ人が執筆するとか・・・。
 短いからゆえの難しさがあります。
 じっくり読み味わってください。


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