箱根湯本、早雲寺の近く正眼寺に曽我堂があります。その曽我堂縁起には、
建久四年(1193)5月富士裾野で父の仇、工藤祐経討ち本懐を遂げた曽我五郎・十郎の菩提供養のため、兄弟の親類縁者によって兄弟が仇討成就を願って祈念参籠したといわれる湯本地蔵堂の近くに曽我堂が建立されました。その創建年代は明らかでありませんが、江戸初期に修復された記録がありますので、それ以前に遡ることは確かです。江戸時代東海道箱根八里の沿道にあったこの堂の地蔵菩薩像は曽我歌舞伎の流行とともに「曽我兄弟の化粧地蔵」と呼ばれ、街道を行く旅人の信仰をあつめました。
現在もこの地蔵菩薩像はお彼岸にご開帳されると、お寺の方に伺いました。江戸時代には、『吾妻鑑』や『曽我物語』をもとに近松門左衛門が浄瑠璃を書き、初代団十郎が歌舞伎の演目として取り上げた曽我物は人気を博しました。上方や京に上る人や伊勢参りに出かける人々にとっては、街道沿いにあるこうした名所見物も楽しみの一つでした。大磯の曽我十郎の愛妾虎御前ゆかりの旧跡もしかりです。
また小田原市の資料をみますと、中世の箱根山は死者たちの霊魂がさまよう山といわれたらしく、霊魂は国境に集まる。まさに箱根山は、東国と西国の境の山であったようです。天下の験と唄われ、ただでさえ険しい道のりに加え、こんなちょっと恐ろしい話を聞けば、曽我五郎・十郎の供養のためにゆかりの地蔵菩薩像に手をあわせたくなる気持ちは理解できます。
江戸時代、旅慣れた人は箱根八里を箱根山中にとどまらず、一気に三島宿まで行ったと言われています。その気持ちは交通の発達した今でも変わりませんね。私もひたすら三島を目指すことにします。