人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

源実朝と無著・世親

2020-07-16 20:35:07 | 日記

先日投稿した「無著、世親にせまる」という記事のなかで、奈良の興福寺北円堂の再興事業に実朝は関わっていたかという、なんとも妄想的で、ばかげた考えを載せました。とは言いましても、念のため妄想かどうがを検証するために、『金塊和歌集』(新潮日本古典集成;樋口芳麻呂校注)にあたってみました。建暦年間(1211-1213)ころに詠まれたと思われる和歌にそれらしきものがありました。

  大乗、中道観を作る歌

614 世の中は 鏡に映る 影にあれや あるにもあらず なきにもあらず

この歌の注には、「大乗」的な哲理から「中道観」が生まれることを詠んだ歌、の意とあります。「中道観」は、一切の事象・存在は有でも空でもなく、有空と不即不離の中正絶対であると説く真理であると、書いてありました。前にも紹介した『世親』(講談社学術文庫)には、無著・世親が属した瑜伽行唯識派は、三自性説により非有非無という中道を論理的に説明したとあります。「分別される如くには存在しない。しかし、一切がまったく存在しないというわけではない」との考え方です。まさに実朝の歌そのものです。実朝は中道の考え方を理解したうえに、和歌としてのこした訳です。さらに、  

   懺悔の歌

616 塔を組み 堂をつくるも 人の嘆き 懺悔にまさる 功徳やはある

この歌の注には、堂塔建立の外面的功徳を施して得意がるより、自己の内面に目を向ける方が大切だと、舌鋒鋭く詠んでいると、書いてありました。この歌が作られたのは、興福寺北円堂の再興の時期と重なります。妄想を働かせば、実朝は遠く京都で藤原氏が自分の氏寺を建立し、そこに運慶に作らせた無著・世親の像が納められたと聞いたのかもしれません。歌に込められた思いが実朝の本意だとすれば、近衛家実の事業に批判的だったということになります。

『金塊和歌集』にあった和歌二首。実朝観が変わる歌でした。ますます源実朝という人物を探求したくなりました。早速、本日、二所詣での伊豆山神社に行ってきたところです。

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