このブログで「鎌倉を知る」シリーズを書くのは4月末を最後に久しぶりです。新型コロナの外出自粛で鎌倉の歴史案内のブログは控えていました。緊急事態宣言の発出が解除され、いよいよ再開かと思っていましたが、生憎の天気でお休み。なかなか思ったようにはいきませんね。昨日は一日雨が降らないという予想でしたので、前から行きたかった熱海の伊豆山神社に出かけました。大船から10時17分発の熱海行に乗り、帰りは熱海15時15分発に乗れましたので、有意義に半日を過ごせました。
伊豆山神社は明治時代以前は、伊豆大権現(伊豆山)、走湯大権現(走湯山)と呼ばれていました。古くは応神天皇、仁徳天皇ころから知られ、中世では、『吾妻鑑』にもたびたにその名前が登場します。最初は治承四年(1180)7月。頼朝が走湯山の覚淵を召し、仏前に素願を表白せしむとあります。山木の館を襲撃し、平家討伐を決断した時です。次は、8月15日。頼朝、日々の勤行を伊豆山の法音尼に代行せしむ。この法音尼は政子の経師(お経を書写する人)で、経典の目録を渡しています。頼朝は信仰心が篤く、毎日の勤行を欠かさなかったと言われていますので、これを代行させるほど信頼していたと思われます。その後、23日の石橋山合戦で頼朝は手痛い敗北を喫し、真鶴海岸から安房の国に脱出しました。一方、頼朝と離れ離れになった政子は、当初伊豆山に匿われ、その後、平家の追手から逃れるために、覚淵の手引きで9月2日に秋戸郷という場所に逃げ隠れました。秋戸郷があった場所は、国道135号線沿いですが、走湯から熱海に行く途中に案内があります。
その後は、源実朝が二所詣で何度も伊豆大権現をお詣りしています。その様子は『吾妻鑑』に記事があり、『金塊和歌集』に歌がのこされていますので、ご存じの方は多いかと思います。
今回の旅では、伊豆山神社の本殿をお詣りし、そのあと、往復1時間15分かけて本宮社を参詣しました。本殿に戻ってからは837段ある階段を一気に下り、海岸にある走湯(そうとう・はしりゆ)の源泉まで行きました。この走湯まで行くことを是非お勧めします。走湯大権現の原点の場所です。洞窟のなかで70度の温泉が大地から吹き上がる様子は、凄まじいエネルギーを感じます。ただし洞窟内は蒸し風呂で長くはいられませんけど。帰りは220段の階段を上って国道に出て、熱海方面に向かい逢初橋(あいぞめ)からバスに乗るか、30分位国道沿いを歩いて駅に戻ります。