運慶が作った仏像で印象に残っているのは何かと問われれば、奈良の興福寺北円堂に納められている無著(むじゃく)菩薩立像と世親(せしん)菩薩立像と答えます。高校の日本史の教科書に載っていた無著像のなんとも凛々しく高邁で思慮深いお顔が記憶に残っています。とは言っても、もうすぐ古希を迎える年齢になろうとしているのに、それが運慶作であり、無著や世親がどんな人物かも知らないで過ごしてきました。お恥ずかしい限りです。
世親を知りたいと思ったのは、これまた梅原猛の著作『隠された十字架ー法隆寺論ー』に藤原不比等が登場し、藤原不比等は「唯識」を中国から日本にもたらした僧義淵に近づき、唯識の法相宗により私寺である興福寺を創建したと書いていたからです。日本の国家観や神道、仏教などの宗教観の礎を築いたと言われる藤原不比等が着目した唯識。その思想はAD400年、インドに生まれた世親によって体系化されました。もう一人、無著は世親の兄だと伝わっています。この藤原氏がいち早く着目した唯識思想。その考え方は?世親はどんな人物? 講談社学術文庫『世親』からの拾い読みです。
世親は、はじめは小乗仏教の説一切有部を学び、その後、兄の無著の影響もあり大乗仏教の「瑜伽行唯識派」に転向しています。世親の著作は『倶舎論』『唯識二十論』『唯識三十頌』など。『倶舎論』は「我は存在せず、煩悩と業などによって構成される法のみがある」というものです。唯識とは「唯(ただ)識(こころ)のみが存在する」とする「唯識無境」の考え方。そして「アーラヤ識」を重視します。このアーラヤ識は、①身体を維持するエネルギーの根源で、②あらゆる存在を生み出す生成的根源とする自己存在の根本をなすものとしています。世親をはじめ当時の人は、釈尊の教えにもある「心(こころ)」とはなにかを徹底的に突き詰めて考えました。現代なら脳から発せられる電気信号であると答えるかもしれませんが。私の理解度ではこの程度ですでに限界です。
さて北円堂にある無著・世親像は建暦二年(1212)、総監督である運慶のもとで、運慶の子運賀・運助の作と伝わっています。その再興事業を指揮したのは藤原氏長者の近衛家実。法相宗では貞慶や良遍。後鳥羽上皇、源実朝の時代ですが、この事業に鎌倉幕府がどう関わったのか?興味はつきません。『吾妻鑑』には、建暦元年(1211)に実朝が『貞観政要』の読み合わせをはじめたとあります。実朝が政治に興味を持った時期、実朝も関わっていますか、どうでしょうか?