このコロナ禍において鎌倉に住む二人の知識人が「不要不急」について語っています。まず円覚寺の横田南嶺管長は『不要 不急 苦境と向き合う仏教の智慧』(新潮新書 2021年7月発行)。養老孟司氏は『ヒトの壁』(新潮新書 同年12月発行)。このお二方はそれぞれの分野で多忙な人です。とても「不要不急」の四文字に心を悩ます人たちとは思えません。
さて広辞苑では、「不要不急」を「不要=(明治期になって造られた語)必要でないこと。いらないこと。」「不急=急を要しないこと。さし当たって用のないこと。」と説明しています。こうしてみると、「不要不急」という四字熟語は近世になってからの造語で、古来中国で用いられたとか、禅語にあった言葉ではないようです。コロナ禍の緊急事態宣言下で、政府から「不要不急」の外出は控えて下さいとか、飲食を伴う会合、スポーツ、コンサート、観劇や観光など「不要不急」の催しは自粛して下さいと言われたことから、注目を浴びる言葉になりました。多くの人が自分の仕事や存在そのものが「不要不急」ではないかと疑念をもったわけです。特に私のような高齢者は生きていること自体が不要不急かと考えたりしました。
横田管長も「不要不急」な我が人生と言っていますし、養老先生も解剖学そのものが不要不急の学問かと思われていると述べています。また横田管長は続けて、古人が『仏法は障子の引き手峰の松火打袋にうぐいすの声』と歌っているように、世の中に無用なものなどないのだ。用材として使われない峰の松だって道案内の役にたっているし、「有の利を為すは無の用を為すため」ということもある。円覚寺の門前にいる猫だってお寺には無用なものであるが、猫がいれば心が和むと、語っています。同じように、養老先生は「たかがネコ、されどネコ」と、飼い猫「まる」の存在の大きさを話しています。人生の大家の二人に愛される猫。実に不可思議な動物ですね。実は巻頭の写真は円覚寺の門前にいる名前のない猫の姿です。偶然にもコロナ禍が始まる直前に撮りました。
鎌倉で観光ボランティアの仕事をしていますが、「不要不急」の仕事ということで、コロナ禍の間ほとんど開店休業状態でした。せっかく定年後の楽しみを見つけたのに寂しい限りです。中国の都市封鎖は極端ですが、日本の「不要不急」の自粛もそろそろ良いかなと思うようになってきました。