伏見稲荷大社から送られてくる季刊誌『大伊奈利』を読んでいましたら、加藤謙吉氏寄稿の「稲荷社の創祀と深草の秦氏」が目にとまりました。鎌倉にも佐助稲荷や丸山稲荷などがありますが、稲荷社について勉強する機会は少なく、読ませていただいて大変参考になりました。拾い読みで恐縮ですが、少し紹介させていただきます。
まず伏見稲荷大社の創祀は和銅四年(711)と平安京ができる前からありました。伊奈利社といったようで秦中家忌寸(はたのなかつえのいみき)の氏人が祭祀を行う神官になったとされています。その意味は、「稲を荷なう」神として「稲荷」の字があてられました。その本源は農耕神・穀霊神です。そして伏見稲荷のある地には渡来人である秦氏が住んでいました。秦氏は全国に分布していますが、その中心となったのが山城(現京都府)の秦氏で、中でも伏見稲荷のある深草や葛野(太秦や嵐山付近)に集中していました。秦氏は嵐山の渡月橋付近の「葛野大堰(かどのおおい)」を築いたことや太秦地区の前方後円墳を造営したことで知られています。そういった土木技術や養蚕による絹製品の製造、酒造り、製塩、朱砂(辰砂・硫化水銀)・水銀・銅などの採掘・精錬にも携わっていました。渡来人の秦氏がもたらした技術がなければ大和朝廷の発展はなかったといってもいいでしょう。この朱砂(しゅしゃ)・水銀ですが、古来は伊勢が大産出地だったようで飯高郡丹生(にう)郷の丹生山で採掘されていました。この丹は硫化水銀鉱のことで朱色であり、古来から建物に塗れば魔除けや腐食防止に適し、まさに稲荷社の鳥居の朱色はこの丹が塗られています。なるほど伏見稲荷大社のシンボルは朱色の鳥居でした。また丸薬にも使われ~丹という薬の名前は聞いたことがあるかと思います。
そしてこの丹生(にう)の「丹」の字のついた場所は神奈川県にもあります。丹沢ですね。その丹沢の麓には秦野の町があります。以前日向薬師で、地元の方に古代に丹沢では辰砂(しんしゃ)が採掘されたという話を伺いました。想像するに秦氏がこの採掘に携わっており、秦氏が住むこの地を「秦氏が住む野=秦野」といったのではないかと勝手に妄想しています。
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