先日、妙本寺の祖師堂でお寺の方から妙本寺創建時のお話を伺うことができました。妙本寺を案内するときはこの比企ヶ谷で起きた小御所合戦(これまでは比企氏の乱といわれている)のことを中心に説明するのですが、妙本寺創建のいきさつについては日蓮上人が開山で比企能員の子である比企能員が開基である程度で深堀せずにいました。そして無知がなせる業でしょうか?「なぜ小御所合戦で滅びた比企一族の能本がこの場所に妙本寺を創建することができたのですか?」という質問をしてしまいました。
お寺さんの話をきっかけに、比企能本と日蓮宗の関係についてネットで調べてみますと、本門佛立宗が出している「お祖師さまを巡る人々第16回」というコラムをみつけました。比企能本(比企大学三郎能本)は小御所合戦が起きた時はまだ2歳でしたが、たった一人生き残り、伯父に引き取られ京都で過ごし、成長して有名な儒学者になったとあります。別の「比企一族の歴史」(東松山市 郷土学部B班)という報告書には、竹御所と共に当時2歳で助けられ、その後上京し儒者となって都で順徳天皇に仕え、竹御所死後比企氏再興が許されたことにより、能員屋敷跡の比企ヶ谷に法華堂を創建したと書かれています。
ここからは妄想の世界となりますが、竹御所が亡くなったのは天福二年(1234)七月なので、再興を許したのは3代執権である北条泰時のころでしょうか?ではその根拠は何か?私見ですが、それは泰時が制定した『御成敗式目』にあるのではないかと考えます。『御成敗式目』(貞永元年1232制定施行)の七条(不易の法)は、頼朝から政子の時代までに将軍から与えられた所領は、たとえそれ以前から本来の領主と称するものがあらわれ、返還を求めても、返還されることはないと規定されています(『人物叢書 北条泰時』による)。この比企ヶ谷の土地は、源頼朝は乳母である比企の尼にその恩に報いるため与えた土地でした。比企一族は滅亡しましたが、比企の尼の孫にあたる比企能本が相続人として認められたと思われます。
さらに本門佛立宗のコラムによれば、比企能本と日蓮上人の最初の出会いは、建長三年(1251)で能本50歳、日蓮上人30歳のときに日蓮上人が比叡山で修業中に儒学を学び、『立正安国論』を執筆する際にも文章的なことを能本に質問していたとあります。また千葉県の本土寺に遺されている「大学三郎御書」(日蓮上人が比企能本に出した手紙)には、龍ノ口法難の折りに能本が日蓮上人の助命に尽力した様子が書かれています。このように日蓮上人との深い関係もあり、文永十一年(1274)に日蓮上人が佐渡から鎌倉に戻ったあと法華堂を「長興山妙本寺」と名付け、今日に至っているわけです。
妙本寺の参道入口には「閻浮提内本化最初霊窟」と彫られた石碑がありますが、さもありなんと納得した次第です。そして小御所合戦で滅亡したはずの比企氏一族の菩提を弔うために創建された妙本寺に令和の時代まで多くの参拝者が訪れていることを思うと、真に勝ち残ったのは比企一族ではなかったと不思議な気がします。今年はまだ満開になっていませんが、また海棠の咲く季節になりました。写真は2年前の4月2日に写したものです。
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