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人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

無著、世親にせまる

2020-07-11 09:06:04 | 日記

運慶が作った仏像で印象に残っているのは何かと問われれば、奈良の興福寺北円堂に納められている無著(むじゃく)菩薩立像と世親(せしん)菩薩立像と答えます。高校の日本史の教科書に載っていた無著像のなんとも凛々しく高邁で思慮深いお顔が記憶に残っています。とは言っても、もうすぐ古希を迎える年齢になろうとしているのに、それが運慶作であり、無著や世親がどんな人物かも知らないで過ごしてきました。お恥ずかしい限りです。

世親を知りたいと思ったのは、これまた梅原猛の著作『隠された十字架ー法隆寺論ー』に藤原不比等が登場し、藤原不比等は「唯識」を中国から日本にもたらした僧義淵に近づき、唯識の法相宗により私寺である興福寺を創建したと書いていたからです。日本の国家観や神道、仏教などの宗教観の礎を築いたと言われる藤原不比等が着目した唯識。その思想はAD400年、インドに生まれた世親によって体系化されました。もう一人、無著は世親の兄だと伝わっています。この藤原氏がいち早く着目した唯識思想。その考え方は?世親はどんな人物? 講談社学術文庫『世親』からの拾い読みです。

世親は、はじめは小乗仏教の説一切有部を学び、その後、兄の無著の影響もあり大乗仏教の「瑜伽行唯識派」に転向しています。世親の著作は『倶舎論』『唯識二十論』『唯識三十頌』など。『倶舎論』は「我は存在せず、煩悩と業などによって構成される法のみがある」というものです。唯識とは「唯(ただ)識(こころ)のみが存在する」とする「唯識無境」の考え方。そして「アーラヤ識」を重視します。このアーラヤ識は、①身体を維持するエネルギーの根源で、②あらゆる存在を生み出す生成的根源とする自己存在の根本をなすものとしています。世親をはじめ当時の人は、釈尊の教えにもある「心(こころ)」とはなにかを徹底的に突き詰めて考えました。現代なら脳から発せられる電気信号であると答えるかもしれませんが。私の理解度ではこの程度ですでに限界です。

さて北円堂にある無著・世親像は建暦二年(1212)、総監督である運慶のもとで、運慶の子運賀・運助の作と伝わっています。その再興事業を指揮したのは藤原氏長者の近衛家実。法相宗では貞慶や良遍。後鳥羽上皇、源実朝の時代ですが、この事業に鎌倉幕府がどう関わったのか?興味はつきません。『吾妻鑑』には、建暦元年(1211)に実朝が『貞観政要』の読み合わせをはじめたとあります。実朝が政治に興味を持った時期、実朝も関わっていますか、どうでしょうか?

 

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禅の世界 --達磨とゴリラーー

2020-07-01 13:39:03 | 日記

何とも訳の分からないタイトルをつけました。

実は最近、『スマホを捨てたい子どもたち』(山極寿一著;ポプラ新書)という本を読み、山極先生の言われる「信頼関係をつくるのは言葉ではない。言葉は代替物であって、信頼関係へのリアルな架け橋になるのは、それ以外の五感の中、正しくは、五感を感じられる身体の中にある」と言う、ゴリラの観察から感じとった「言葉」に対する問題意識に同感するところがありました。言葉を持たないゴリラは眼でモノを語り、相手に共感する。この共感するとは、「相手の気持ちがわかる」ことで「理解する」とは違い、ただ「了解する」ことだとありました。なんとも禅問答みたいです。それにゴリラに近寄って見たことがありませんので、ネットで名古屋の東山動物園にいるハンサムゴリラで女性に人気のある「シャバーニ」君の動画を見つけました。書き込みには、見つめられると胸がキュンとなると書いてありましたが、なるほどいい眼をしていますし、存在感があります。静かに坐っている様子は大悟しているようにも見えます。

さてゴリラと達磨との関係ですが、このブログでも「安心立命」「拈華微笑」などの禅語を紹介してきましたが、『無門関』四則に胡子無鬢というのがありました。いずれも言葉でなく、心で受け止めよというものです。

或庵曰く、「西天の胡子(達磨大師)、なんによってか鬚なき」。  無門曰く、「参は須らく実参なるべし、悟は須らく実悟なるべし。者箇の胡子、直に須らく親見一回して始めて得べし。親見と説くも、早く両箇となる」。

無門は、この達磨の話にしても、一度は彼にぴたりと眼と眼の合うような対面をすることが必要だと言っています。山極先生は、言葉はヒトが生きる社会が広がったことから発明されたもの。しかし人間の脳の容積(1400㏄位)は60万年前から40万年前とほとんど同じ大きさ。そのため、いくら文化が発達したからといっても、互いに信頼しあっておしゃべり出来る人数はせいぜい15名。さらに真につながれる人の数も150人が限界であると。言葉は便利なものであるが、人間が自分の脳のキャパにみあった生き方をするなら、過度に言葉に頼るなと警鐘を鳴らしているわけです。ましてSNSなら一瞬で世界中に拡散し、記録はdelete不能です。

 

 

 

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