日本が第二次世界大戦に負けて残念だったと思うことに、何万本もの刀が海外に二束三文で流出してしまったことがあげられる。
刀は古代には太刀(たち)と呼ばれ、反りのない直刀であった。それが平安期になると反りのあるものに変化していく。そして、戦国時代になると、刀が登場。
太刀と刀。なんの違いが?と思われるかも知れない。
大きく違うのは、太刀は刃を下にして吊るすように携帯する。これを佩(は)くという。
一方、刀は刃を上にして、携帯した。これは、差すと表現された。
また、太刀は三尺(約90cm)くらいあったが、刀は二尺三寸(約70cm)以下が標準であった。
武器としての攻撃力よりも、軽量化が求められるようになったのである。
これは、「我こそは」と名乗りを上げてから切りあったいささかのんびりした感のある馬上の戦いから、至近戦へと戦法が移行していったという事情による。
さて、武士にはステイタスシンボルとして必需品だった刀。
時代劇では素浪人が腰に差しているのは竹光だったなどという設定も好まれて使われているようだが、お値段はいくらくらいだったのだろう?
石川英輔氏の「大江戸番付つくし」は、1800年代のものと思われる名刀の番付表を紹介している。
そこにはしっかりと価格まで記されている。
目についた所を書き示して見ると、三人の行事役の一人に大坂の粟田口忠綱(20両)、副主催者に虎徹(30両)。東の大関には、42歳で夭逝した天才、津田越前守助廣(30両)、西の大関には地刃の出来の優れた大坂の井上真改(30両)。個人的に好きな近江忠廣(7両)は西の前頭に位置している。
番付の端を見ると1両という値段も見える。
この頃の一人前の大工の年収はだいたい20両。
前項に登場の淡野氏の試算によるとこの頃の1両は12万円と見ているが少しレートが低いかも知れない。
仮説的に1両=15万円としてとらえると、刀は15万円くらいから、450万円くらいだったと言える。
かなりの格差である。現代で言うと、車であろうか。
中古車から高級車という並びになる。
浪人が刀を質屋に入れるのは現代人が車を中古車センターに売るようなものかもしれない。
さて、有名人はどのような刀を使っていたのだろう?
鬼平こと長谷川平蔵は、二尺二寸九分の粟田口忠綱をメインに井上真改を使った。どちらも高級品だ。忠綱は、江戸城内で田沼意知が佐野善左衛門によって殺害された時に使われた刀である。佐野は賄賂政治家の息子を倒したと、庶民から「世直し大明神」としてもてはやされ、忠綱の価格も高騰したという。同じ時代に生きた平蔵もそのこともあり、愛用したのではないだろうか。
近藤勇は、虎徹。近藤の刀は実は偽虎徹だったという説もあるが、真偽は明らかでない。
虎徹は、現代で言う彦根市長曽根の生まれ。
福井で鎧師として既に名匠としての地位を築いていた。
あるとき、御前で名刀と名兜とどちらが強いかが話題になり、勝負することになった。
もちろん、兜は虎徹作。
いざ勝負の時。
刀匠が、満身の気迫を込めて刀を振り下ろそうとしたその刹那。
虎徹は「しばし」と言って、
「位置が少し曲がっておりますゆえ」と兜の位置を直した。
それを刀匠は怒ったような顔で見ていたが、
再び、満身の力で刀を振り下ろした。
しかし、兜はびくともしなかった。
刀匠は、返す刀で近くにあった石の灯籠を斬ると、灯籠はまっぷたつに割れた。
将軍は二人ともあっぱれであると、ふたりに褒美を下さったが、勝敗は明らかである。
虎徹は、勝った。
しかし、虎徹はその直後、兜作りをやめてしまう。
そして、その刀匠に弟子入りをし見知らぬ地に行ったのである。
後日、虎徹は、
「あのときは刀匠の気迫十分で、負けたと思った。それで、気迫をそぐために待ったをかけたのだ」
と告白している。
そして、
「そんな自分が恥ずかしくてならなかった」
と言っている。
時に、虎徹50余才。御前試合に勝ったと、自慢し、鎧師としての地位を更に確固たるものにしてもよかった。
当時の50歳は、多くが隠居する年齢である。
しかし、虎徹は、その年齢から奮起して、日本一の刀匠としての地位を確立したのだ。
現代で言えば、60過ぎのオーナー社長が、その椅子をかなぐり捨て、違う分野で成功を納めたようなものだ。
虎徹は、延宝六年(1678年)に上野池之端で74歳で亡くなっている。当時としては、高齢だ。
チャレンジ精神があったから、高齢まで生きられたのか、それとも、それくらいまで生きられる生命力のあった人だから、50歳を過ぎてもチャレンジすることができたのか。
それはわからないが、人は成し遂げたいことがあるうちは老いないものじゃないかな、と思う。
いい話だ。
写真は私の愛刀
大江戸番付づくし 石川英輔 実業之日本社
ここに生きる道がある 心に残るエピソード集 花岡大学 PHP
図説日本刀大全 学研
岡山の優品展覧 備前長船博物館
歴史読本 1993年8月号
カット&ラリー http://www.n-p-s.net/
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刀は古代には太刀(たち)と呼ばれ、反りのない直刀であった。それが平安期になると反りのあるものに変化していく。そして、戦国時代になると、刀が登場。
太刀と刀。なんの違いが?と思われるかも知れない。
大きく違うのは、太刀は刃を下にして吊るすように携帯する。これを佩(は)くという。
一方、刀は刃を上にして、携帯した。これは、差すと表現された。
また、太刀は三尺(約90cm)くらいあったが、刀は二尺三寸(約70cm)以下が標準であった。
武器としての攻撃力よりも、軽量化が求められるようになったのである。
これは、「我こそは」と名乗りを上げてから切りあったいささかのんびりした感のある馬上の戦いから、至近戦へと戦法が移行していったという事情による。
さて、武士にはステイタスシンボルとして必需品だった刀。
時代劇では素浪人が腰に差しているのは竹光だったなどという設定も好まれて使われているようだが、お値段はいくらくらいだったのだろう?
石川英輔氏の「大江戸番付つくし」は、1800年代のものと思われる名刀の番付表を紹介している。
そこにはしっかりと価格まで記されている。
目についた所を書き示して見ると、三人の行事役の一人に大坂の粟田口忠綱(20両)、副主催者に虎徹(30両)。東の大関には、42歳で夭逝した天才、津田越前守助廣(30両)、西の大関には地刃の出来の優れた大坂の井上真改(30両)。個人的に好きな近江忠廣(7両)は西の前頭に位置している。
番付の端を見ると1両という値段も見える。
この頃の一人前の大工の年収はだいたい20両。
前項に登場の淡野氏の試算によるとこの頃の1両は12万円と見ているが少しレートが低いかも知れない。
仮説的に1両=15万円としてとらえると、刀は15万円くらいから、450万円くらいだったと言える。
かなりの格差である。現代で言うと、車であろうか。
中古車から高級車という並びになる。
浪人が刀を質屋に入れるのは現代人が車を中古車センターに売るようなものかもしれない。
さて、有名人はどのような刀を使っていたのだろう?
鬼平こと長谷川平蔵は、二尺二寸九分の粟田口忠綱をメインに井上真改を使った。どちらも高級品だ。忠綱は、江戸城内で田沼意知が佐野善左衛門によって殺害された時に使われた刀である。佐野は賄賂政治家の息子を倒したと、庶民から「世直し大明神」としてもてはやされ、忠綱の価格も高騰したという。同じ時代に生きた平蔵もそのこともあり、愛用したのではないだろうか。
近藤勇は、虎徹。近藤の刀は実は偽虎徹だったという説もあるが、真偽は明らかでない。
虎徹は、現代で言う彦根市長曽根の生まれ。
福井で鎧師として既に名匠としての地位を築いていた。
あるとき、御前で名刀と名兜とどちらが強いかが話題になり、勝負することになった。
もちろん、兜は虎徹作。
いざ勝負の時。
刀匠が、満身の気迫を込めて刀を振り下ろそうとしたその刹那。
虎徹は「しばし」と言って、
「位置が少し曲がっておりますゆえ」と兜の位置を直した。
それを刀匠は怒ったような顔で見ていたが、
再び、満身の力で刀を振り下ろした。
しかし、兜はびくともしなかった。
刀匠は、返す刀で近くにあった石の灯籠を斬ると、灯籠はまっぷたつに割れた。
将軍は二人ともあっぱれであると、ふたりに褒美を下さったが、勝敗は明らかである。
虎徹は、勝った。
しかし、虎徹はその直後、兜作りをやめてしまう。
そして、その刀匠に弟子入りをし見知らぬ地に行ったのである。
後日、虎徹は、
「あのときは刀匠の気迫十分で、負けたと思った。それで、気迫をそぐために待ったをかけたのだ」
と告白している。
そして、
「そんな自分が恥ずかしくてならなかった」
と言っている。
時に、虎徹50余才。御前試合に勝ったと、自慢し、鎧師としての地位を更に確固たるものにしてもよかった。
当時の50歳は、多くが隠居する年齢である。
しかし、虎徹は、その年齢から奮起して、日本一の刀匠としての地位を確立したのだ。
現代で言えば、60過ぎのオーナー社長が、その椅子をかなぐり捨て、違う分野で成功を納めたようなものだ。
虎徹は、延宝六年(1678年)に上野池之端で74歳で亡くなっている。当時としては、高齢だ。
チャレンジ精神があったから、高齢まで生きられたのか、それとも、それくらいまで生きられる生命力のあった人だから、50歳を過ぎてもチャレンジすることができたのか。
それはわからないが、人は成し遂げたいことがあるうちは老いないものじゃないかな、と思う。
いい話だ。
写真は私の愛刀
大江戸番付づくし 石川英輔 実業之日本社
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歴史読本 1993年8月号
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