インターネットを見ていたら、高山彦九郎は今で言ったらオタクのような存在だったかも知れない、という記述を見つけた。
最初は随分、突飛な意見だと思っていたがよくよく彦九郎の行動を見ていくと、確かにオタクっぽいところがある。
彦九郎は日記マニアであり、コレクターでもあった。彼が集めていたのは全国の美談といった類のものだ。
もっと系統立てて、風俗なども書いていたなら、たとえば「守貞漫考」のような歴史的資料になっただけに、残念である。
彦九郎が現代に生きたなら、さしずめ熱心なブロガーになったであろう。
彼を一言で表す漢字は「純」だろうか。
彦九郎は経世家というが、学者ではない。一派立てて、学説を論じた訳でもないのだが、強烈といってもいいほどの尊王、あるいは敬親といった考えを持って、各地を遊説して廻る。
この彦九郎の一大転機ともいえるのが、光格天皇に拝謁したことであろう。一途な彦九郎は、ますます尊王思想に傾倒するようになり、後に尊号問題では京師にうまく利用されたとも言えなくもない。
尊号問題とは時の光格天皇が実父である閑院宮に太上天皇の尊号を与えたいと主張し、それを松平定信が大反対したという事件を言う。
天皇に在位しなかった親王に天皇の称号を与えるというのはどう見ても異例で、定信の反対意見のほうが筋が通っていたが、朝廷は、繰り返し認可するように主張した。
この問題は、実は江戸と京の綱引きであり、京の揺さぶりであった。
この時、京側のPR担当として彦九郎は活躍するのであるが、幕府から見れば、目の上のたんこぶに等しい。
次第に要注意人物として危険視されるようになり、西国に活動の場を移すが、西の地に行っても、依然、幕府側の監視は厳しく、ついに自刃してしまう。
彦九郎は、優れた思想を遺した人物ではない。
しかし、幕末の志士にも少なくない影響を与えた。
それは彦九郎の思想よりも、彼の純な行動によるところが大きかったのである。
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彦九郎は日記マニアであり、コレクターでもあった。彼が集めていたのは全国の美談といった類のものだ。
もっと系統立てて、風俗なども書いていたなら、たとえば「守貞漫考」のような歴史的資料になっただけに、残念である。
彦九郎が現代に生きたなら、さしずめ熱心なブロガーになったであろう。
彼を一言で表す漢字は「純」だろうか。
彦九郎は経世家というが、学者ではない。一派立てて、学説を論じた訳でもないのだが、強烈といってもいいほどの尊王、あるいは敬親といった考えを持って、各地を遊説して廻る。
この彦九郎の一大転機ともいえるのが、光格天皇に拝謁したことであろう。一途な彦九郎は、ますます尊王思想に傾倒するようになり、後に尊号問題では京師にうまく利用されたとも言えなくもない。
尊号問題とは時の光格天皇が実父である閑院宮に太上天皇の尊号を与えたいと主張し、それを松平定信が大反対したという事件を言う。
天皇に在位しなかった親王に天皇の称号を与えるというのはどう見ても異例で、定信の反対意見のほうが筋が通っていたが、朝廷は、繰り返し認可するように主張した。
この問題は、実は江戸と京の綱引きであり、京の揺さぶりであった。
この時、京側のPR担当として彦九郎は活躍するのであるが、幕府から見れば、目の上のたんこぶに等しい。
次第に要注意人物として危険視されるようになり、西国に活動の場を移すが、西の地に行っても、依然、幕府側の監視は厳しく、ついに自刃してしまう。
彦九郎は、優れた思想を遺した人物ではない。
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