Takの山行記録とバイオリンとかAIとか

山行記録に加えて必死に練習中のバイオリン、必死に勉強中のAIについて

大楠山 三浦半島最高峰 241m

2022-01-30 15:45:00 | 日記
三浦半島はその全域を丘陵に覆われ、平坦な場所は横須賀の海岸部と南端の三崎に限られます。その付け根の鎌倉に当時の政権が誕生したのはこの三浦半島の位置に重要な意味があったと言われています。その意味は、三浦半島最高峰の大楠山に登ればわかるのだとか。

大楠山は、三浦半島西海岸の秋谷と横須賀の間にある、標高は241mほどの低山です。今日はいつもの逗子渚橋交差点から国道134号線を秋谷まで南下します。葉山、長者ヶ崎、久留和と続く冬の相模湾は夏の喧騒とは打って変わり、静かで海の色もオフショアのお陰で澄んでいます。前田橋の交差点から山側に入り、住宅街をしばらく進むとすぐに三浦半島の背骨をなす丘陵にとりつきます。

三浦半島はほとんど山で、しかも海岸から急坂に取り付く場所が多いです。義経の鵯越の逆落とし、は有名ですが三浦の武士たちはこの辺りの急坂を登り降りしていたので、さほどのことではなかったのだ、という説もあるとか。

かつてはこの山道を越えて、三浦の東西を行き来していたのでしょう。


山頂からの西方面。相模湾を挟んで伊豆半島が見えます。雲の向こうには富士山があります。


南西方向。右に伊豆半島南端と左に伊豆大島。


南は三浦半島南端の三崎。


東は房総半島。


北東には横浜と関東平野。
三浦半島は伊豆半島と房総半島の中間に位置し、安房、武蔵、伊豆という広大な土地と武力の中心に位置していた事が分かります。確かに、介殿は伊豆で蜂起、敗れた後、三浦の勢力と共に海を渡って房総に上陸、そこで再起して鎌倉に入ったとされます。大楠山に登るとこの事がビジュアルにわかると言う事なのでしょう。大河ドラマに影響されて、改めて地元の歴史を学びました。


大楠山山頂には広場と休憩所がありますが、展望台は老朽化のため登れません。少し秋谷側に戻ると国交省レーダー雨量観測所と展望台があります。360度のビューはここからがオススメです。その後、ゴルフ場の横を通り、湘南国際村に入ります。国際村からは舗装された遊歩道が整備されて、最後に階段の急登はありますがのんびり海を見ながらの散策が楽しめます。


湘南国際村はバブル期に計画され、1994年にオープンしました。国際交流や人材育成を目的として、各種研究機関や研修施設を誘致した住宅街併設の大規模開発地区です。天気が良ければ相模湾の向こうに伊豆半島と富士山が見える、風光明媚な場所です。その後、研究機関の誘致は進まず、研修の開催も期待通りには進まず、今はどちらかといえば観光や自然に触れる場所として訪れる人が多いような感じです。開発された場所も一部は元の雑木林に戻すべく植林が行われています。この一帯のお話は、別の機会に改めてしてみたいと思います。














摩耶山 六甲山系

2022-01-15 19:00:00 | 関西の山


今日は電車で行ける近場の摩耶山(702m)に登りました。日本海側は風雪の厳しい天候でしたが、六甲山系は穏やかに晴れて良い山歩き日和でした。今日は新幹線の新神戸駅駅裏から登り始めるルートを取りました。新神戸駅はこれまで何度も乗降してきましたが、その裏に山があって、入山口になっているなどついぞ知りませんでした。

登り始めるとすぐに滝があります。この登山道は布引水系に沿って付けられていますが、この布引水系は古くから神戸の水源でした。急峻な山並みのため、明治以降、ダムや堰堤が数多く作られ、発展する神戸を支えたのでしょう。滝は雌滝、鼓滝、雄滝と続き、平安の頃から名所として歌に詠まれています。

しかし、この景勝地のすぐ麓が新幹線の駅というのはどうなんでしょうか?新幹線がこの水系を遮るように、そして大きな新神戸駅が入り口を塞ぐように立ちはだかっているという感じです。

建設が決まった頃、反対運動でもあったんじゃないかと思って調べましたが、ググる程度ではそのような事実は見つかりませんでした。山陽新幹線で新神戸駅を通った事があればわかりますが、新神戸駅は、大阪側が六甲トンネル、明石側が神戸トンネルという六甲山系を貫く長いトンネルに挟まれています。トンネルの切れ目に駅があるという感じです。ちょうどその場所が布引水系に刻まれた谷だった訳です(と思います)。

駅から下は、生田川と呼ばれて新神戸の目貫通りを構成しています。この辺りの地形は面白いですから是非、地図でご覧ください。

その後もダムや、堰堤が続きます。急峻な山を降る水を有効に活用する、また災害を防ぐ努力の跡が至る所に見られます。この辺の子供たちには、水の大切さを教え、先人の努力を伝えるとてもよい教材だと思います。
この六甲山系は、すぐ麓が住宅街で、標高もさほどでもない山が多いため、毎日登山をされる方が多いようです。西宮から芦屋、神戸、須磨と海側の街は山裾まで住宅が立ち並んでいます。ほんの裏山感覚で、毎日健康登山ができて、海の景色を楽しめるのは羨ましい限りです。


川を離れ尾根筋に入ります。結構なアップダウンが続きます。今日は風もなく、実に快適は尾根歩きでした!

三ノ宮駅から歩き出して2時間ほどで摩耶山山頂に到着しました。麓の駅から歩いて山頂に立つというのは、気分の良いものです。

とはいえ、山頂は眺望なし。ここで大阪湾を望めないはずがない。

掬星台という立派な展望スポットがありました!ここは摩耶ロープウェーの終点でもあり、小さな子供も元気に走り回っていました。夜景のスポットでもあるんだそうです。眼下の街は、27年前の阪神淡路大震災で大きな被害を受けたまさにその場所です。今ではその痕跡はなく、立派な街に蘇っています。しかし、心の傷がまだ癒えない震災被害者の方もまだ多くいらっしゃるとのこと。災害の絶えないこの国で暮らすものとして、このような記憶を無くす事なく、常に備えるようにしなければならないのだと改めて思った1日でした。

六甲といえば加藤文太郎。彼は15歳から神戸に住んで、この界隈を歩き回っていたとされています。今日歩いた尾根筋は、六甲全山縦走路の一部でした。彼もきっとここを通った事でしょう。春になったら全山縦走に挑戦してみようと思います。須磨から宝塚まで、42kmの距離で難易度は高いですが、エスケープはいくらでもできるので、まずはやってみよう!


麓の王子公園では梅の花が咲き始めていました。


今日の記録。その後、ギョーザ、唐揚げ、ビールセット¥850。安すぎる。










4年ぶりの北海道

2022-01-11 21:58:00 | 日記
1月9日はミニ山の会の新年会で、4年ぶりに北海道南富良野町を訪れました。この会は、近隣の山に登った後、金山湖畔にあるホテルで新年を祝う会で、毎年この時期に催
されます。Takは2018年に参加した後、アメリカ駐在、そしてこのコロナ禍で参加できませんでした。この会はもとより、北海道に来るのも4年振りとなりました。


毎年大変お世話になっていた北海道。4年前には家族全員、北海道神宮でお祓いを受けました。その時いただいたお札をお返しするのも今回の目的の一つでした。この4年間で札幌の街はどう変わったのか、駅前通や狸小路商店街を歩いて見てみました。一言で言えば、よく知るこのあたりには新しいお店も増えましたが、古からあるお店、特にお気に入りの飲食店はしっかり営業を続けていました。少し安心しました。でも、外国人観光客のいない環境は非常に厳しいと思います。1日も早く、新しい日常に適応し、コロナと共存しながら観光客を迎え入れられる時になってほしいですね。


8日は朝、Toshiさんにホテルまで迎えに来ていただき、南富良野へ。いつも面倒を見て頂き、本当にありがたく思います。そして南富良野の道の駅でAmigoさん、Hiromiちゃんと合流し4年ぶりの再会を果たしました。実はもう1人、Kasaneちゃんという若い新メンバーも加わり、一気に若返りが進んだかのようです。これで将来も安泰か?この会の皆さんとお会いすると、故郷に戻って来たかのように感じます。


この日は、金山湖畔に近いニノ山でスノーシューハイクとなりました。この山は金山湖北側に0の山から1、2、3と連なる山の2の山となります。中腹までは天気も比較的良くて、南富良野の街も望めました。


今年は積雪量が少ないそうで、雪の下の笹原が固まっていません。スノーシューも飲み込まれ結構大変でしたが、若いメンバーがラッセルを担ってくれたおかげでTakは楽をさせてもらいました。


4年ぶりでも暖かく迎えてくれる皆さんに感謝!


山頂では天気も悪く眺望は得られませんでしたが、久方ぶりのスノーシューハイクは、バックカントリースキーも含めて北海道の冬の楽しみを思い出させてくれました。


ただ、楽しいばかりではもちろんありません。翌朝、外気温はマイナス17度、厳しい環境も思い出させられました。


それでも晴れれば美しい景色が広がり、厳しいながらもこの景色は北海道民の喜びではないでしょうか。


札幌に戻る途中、Toshiさんの古里、夕張を案内して頂きました。ピークには12万人の人口も今は9千人弱。住宅や学校がなくなり、財政も破綻した街ですが、あと数年頑張れば再建されると聞きます。有名なメロンに最近では漢方薬メーカーの薬草加工も誘致され、新しい夕張に向かいつつあることが感じられました。頑張れ、夕張。夕張岳やマウントレイスイスキー場、観光資源も豊富です。
二泊三日の弾丸ツアーでしたが、久しぶりに北海道の素晴らしい自然と温かい皆さんと再会出来てとても幸せな時間を過ごしました。これからは、もっと北海道に関わる時間を増やそうと思いながら、大阪への帰途につきました。