今日は雨。寒くて暗くて雨が降っているシチュエーションはどうも苦手。
今日は「最近よく思うこと」について少しだけ整理しておきたいと思います。
重いテーマなのですが、職業柄避けられぬテーマでもあるので人が生命を終える「死」についてよく考えるのですね。なぜ「死ぬ」のか?と。
人間にとって「死」は唯一の平等なんだけれど、「死」を迎える時というのは、それぞれ異なりますよね。
この世に生れてから、「生まれもった疾患」で、その命を絶たれる人もいれば、100歳になっても元気に過ごしていて、ある日突然眠るようにこの世を去る人もいる。
この違いはなんなのかなと。
また、事故による「死。」誰かの手によって命を奪われる「死。」というのも不思議でなりません。
不慮の事故や事件のニュースを観ていて、亡くなられた方が「なぜ、その場所にいなければならなかったのか。」を考えてしまうのですね。その場所にいなければ死なずに済んだはずなのになぜかその場所にいなければならなかった。
そう考えるとそれは偶然ではなく必然なのかなと思ってしまうのです。
とても不謹慎なことかもしれなけれど、自殺にしても、そこまで追い込まれる環境に陥る事が「その当事者」とって回避できないものだったのなら、必然的にその場所へ導かれたしまったのかなと考えてしまうのです。私の意志を超えた「何か」が、予定調和の為に、その場所へ肉体をけん引してゆくのかなと。
「袖振りあうのも多生の縁」という諺があるけれど、「多生」というのは「前世」のこと。つまり、その環境その場所、その出会いも前世からくるものだとしたら、私たち自身の力ではどうしようもできないということにもなる。
失われた命に対して加害者と被害者という立場が、生じてしまった場合、そこには「念」が生じる。しかし、その「念」が生まれる事も必然なのではないかと思う。そこに生じた「念」容易に断ち切る事が出来ないから、人はまたそこで苦しまなければならなくなる。それが、生まれたばかりの子と母の立場であってもです。
しかし、必ず肉体の滅びだけは約束されている。そこで、リセットされるとだれしもが思うところだけれども肉体の滅びによってその苦しみや念が断ち切れるかという疑問は消えることはない。そんなことはないと思っている人でも、無意識下でそう思うところがあるから「死」が怖いのだと思う。「袖振りあうのも多生の縁」であれば、次もまた、同じようにめぐるのかもしれない。人が自我の声を聞き自我を欲している以上、断ち切れぬ永遠回帰なのかもしれない。
けれども、「死」は唯一の平等と考えた時、それは大変「尊いもの」なのではとも思ってしまうのです。
また、大切な人、最愛の人に先立たれる事は残された者にとっての喪失感は耐えがたいものであるけれど、先立たれた人より生きてゆかなければならない事を赦された人はそれを乗り越えてゆくかなければならない使命を、出逢ったときから「何か」の力によって選ばれているのかもしれません。「あなたなら、この先に訪れる苦難の中でも、(彼もしくは彼女)を変わることなく愛する事が出来るだろう。」と。
そうして、その人にとっての「物語」が出来てゆくのかなとも思うのです。人は「物語」抜きには生きてゆけないでしょう。
だからこそ「死」は必然であるのかもしれません。
と、思ったりしつつも、あ~でもない、こ~でもないと結論の出ぬこと考え巡らせているのです。
今日は「最近よく思うこと」について少しだけ整理しておきたいと思います。
重いテーマなのですが、職業柄避けられぬテーマでもあるので人が生命を終える「死」についてよく考えるのですね。なぜ「死ぬ」のか?と。
人間にとって「死」は唯一の平等なんだけれど、「死」を迎える時というのは、それぞれ異なりますよね。
この世に生れてから、「生まれもった疾患」で、その命を絶たれる人もいれば、100歳になっても元気に過ごしていて、ある日突然眠るようにこの世を去る人もいる。
この違いはなんなのかなと。
また、事故による「死。」誰かの手によって命を奪われる「死。」というのも不思議でなりません。
不慮の事故や事件のニュースを観ていて、亡くなられた方が「なぜ、その場所にいなければならなかったのか。」を考えてしまうのですね。その場所にいなければ死なずに済んだはずなのになぜかその場所にいなければならなかった。
そう考えるとそれは偶然ではなく必然なのかなと思ってしまうのです。
とても不謹慎なことかもしれなけれど、自殺にしても、そこまで追い込まれる環境に陥る事が「その当事者」とって回避できないものだったのなら、必然的にその場所へ導かれたしまったのかなと考えてしまうのです。私の意志を超えた「何か」が、予定調和の為に、その場所へ肉体をけん引してゆくのかなと。
「袖振りあうのも多生の縁」という諺があるけれど、「多生」というのは「前世」のこと。つまり、その環境その場所、その出会いも前世からくるものだとしたら、私たち自身の力ではどうしようもできないということにもなる。
失われた命に対して加害者と被害者という立場が、生じてしまった場合、そこには「念」が生じる。しかし、その「念」が生まれる事も必然なのではないかと思う。そこに生じた「念」容易に断ち切る事が出来ないから、人はまたそこで苦しまなければならなくなる。それが、生まれたばかりの子と母の立場であってもです。
しかし、必ず肉体の滅びだけは約束されている。そこで、リセットされるとだれしもが思うところだけれども肉体の滅びによってその苦しみや念が断ち切れるかという疑問は消えることはない。そんなことはないと思っている人でも、無意識下でそう思うところがあるから「死」が怖いのだと思う。「袖振りあうのも多生の縁」であれば、次もまた、同じようにめぐるのかもしれない。人が自我の声を聞き自我を欲している以上、断ち切れぬ永遠回帰なのかもしれない。
けれども、「死」は唯一の平等と考えた時、それは大変「尊いもの」なのではとも思ってしまうのです。
また、大切な人、最愛の人に先立たれる事は残された者にとっての喪失感は耐えがたいものであるけれど、先立たれた人より生きてゆかなければならない事を赦された人はそれを乗り越えてゆくかなければならない使命を、出逢ったときから「何か」の力によって選ばれているのかもしれません。「あなたなら、この先に訪れる苦難の中でも、(彼もしくは彼女)を変わることなく愛する事が出来るだろう。」と。
そうして、その人にとっての「物語」が出来てゆくのかなとも思うのです。人は「物語」抜きには生きてゆけないでしょう。
だからこそ「死」は必然であるのかもしれません。
と、思ったりしつつも、あ~でもない、こ~でもないと結論の出ぬこと考え巡らせているのです。