硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

君は何者だったのか。

2016-02-16 22:30:09 | 日記
川崎市にある有料老人ホームでの入居者転落事故が元職員による殺人容疑となった。警察関係者からもたらされた情報によると容疑者の男性は容疑を認め始めているという。
老人ホームの社長が会見で彼の評価を「頼れる」という表現をしていたが、彼の元上司の報告であろうことから察すると、社長は人より数字を見る人であり、元上司も彼の評価を頼れる人と報告していた処から考えると、元上司もまた他者に対して希薄であったのはないかと推測でき、容疑者の彼がそのような評価を受けられたのは、上司には逆らわなかったからであろうと思われる。しかし、容疑者の彼が求めていたものは、傷つかずに社会的に高く評価されたいという願望であり、その願望こそが彼が最も重要視した事柄であったからこそ、他者に対して無関心でいる事ができ、殺人も嘘もためらうことがなかったのだと思う。

もし彼が本当に高く評価されたいと願っていた人であるならば、救急救命士を辞めなかったはずであるが、そうしなかったのは、高く評価されるための「失敗し叩かれる」という手続きをブレイクスルーする事が我慢ならなかったからだと思う。それはなぜか。かれは傷つかずに高く評価されたかったからである。

このように推測すると一見偏った思考の持ち主であるように思えるが、彼は欲望にのみ込まれてしまっただけで、実のところはだれもが潜在的に持ちうる感情であり、他者を受容する寛容さが必要となる介護職という仕事に彼のような感性の持ち主が従事してしまえる構造にしてしまったことが一番の問題であるように思う。現在、国も介護待遇改善加算という方法で改善を図ろうといているが、もはや金で解決する問題ではなくなっている感じがします。

こうなってしまったのは高齢者を社会保障制度で支えようと働きかけた人たちの考えの甘さによるところが大きいと思う。
社会福祉をビジネスチャンスとして市場で競争させれば、質の高いものが生まれるであろうという考えは、利益の上限が設定されていなことが条件である。しかし介護と言う仕事の収益の主は公金であり、施設の大きさに対して、利用者数が設定されているので、利益の上限と言うものが存在し、しかも利益の対象が人間であるから定員割れを起こさないと保証はどこにもない。そう言った中で利益を上げようとすれば、経費や人件費を抑えようとする動きは必然である。それが消費税の増税によってその動きにさらに拍車をかける事になり、税収が進んでも利益が下がるという大きな矛盾に陥ってしまうのである。
さらに、市場での競争はサービスの細分化を図られるかもしれないが、供給先が増えれば、質の高いサービスを提供しようとするモチベーションの高い人は方々に散ってしまい「選択と集中」とは真逆な動きをしてゆくのである。そうなれば、需要があっても供給先を支える人がいない所が出てきて当然であるが、供給を支える人が不足している事態は、努力なくして高い評価を得たい人にとって望んでいた環境で、未成熟であっても特殊な資格保有者であれば批判されずに高く評価され、瞬く間に頼られる存在になれてしまうのである。

また、雇い主からしてみれば、利益は入居者(利用者)が入居(利用)していてくれ、且つ、従業員が規定定員数さえ満たしていれば、誰だってよいのであり、特殊な資格保有者が在籍していても施設として博がつくだけである。あとは上手く持ち上げてさえいれば低賃金で働き続けてくれる使いやすい存在なのだが、幸か不幸か互いの利害が合致してしまうのである。
しかし、辛辣な表現で申し訳ないが、このような構造は、奴隷を奴隷と意識させずに奴隷として搾取するということと変わりないのである。だが、雇い主も奴隷も立場が違うだけで同じ人であるのだから、自我が肥大してくれば何らかの変化が出てくるという可能性があることを勘定に入れておくべきであっただろう。

高齢者は他者であり、隣人であり、未来の私達でもある。国が抱える人口減少と借金の問題を考えると、社会福祉資源の充実と介護職員の待遇改善はこれ以上見込めないだろう。したがって、このまま行くと、富裕層に存在できれば問題はないであろうが、社会福祉に頼った生き方をしようとするならば、社会福祉とは「ひれ伏し褒め称え敬わないと、同じhumanであるとは認めてはくれぬ人達から与えられる恐怖も含む」と考えなければならなくなるのかもしれない。
政府や官僚の皆さんが、この事件を重く見てくれていれていることを願うばかりである。それは、大変残念であるけれど彼らしかこの状況を変る力を持っていないからです。