硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

迷走する思考。

2016-02-21 20:42:21 | 日記
細い田舎道を車で走っていると前方に自転車に乗った女子中学生がおしゃべりをしながら並走して走っていた。距離が近づいてきたので徐行すると、エンジン音に気が付いて一列になってくれるだろう思っていたけれど一向に一列になってくれない。仕方なくクラクションを軽く鳴らすとこちら側に振り向き一列になったが、追い越してゆく際に横顔を見ると不快感を見て取れた。僕は彼女たちの表情に違和感を抱きながらバックミラーを見るとすぐさま並列して走っていた。

深読みなのかもしれないが、私達が楽しくおしゃべりをしていた処にクラクションを鳴らし私達をよけさせたあなたはとても迷惑な存在と感じていたならば、それは、私達の正しさが絶対であり、私達を否定するあなたは不快であるという感情表現と考えることが出来ます。そしてその感情表現が介護現場で見られるものと同質のものであるならば、少女達と30~50代の大人とカテゴライズされる人々の基本的な思考と感情表現は変わらないのではないかと思ったのです。
さらに、その事象を逆説的にとらえると、学校での活動が社会に適応するための練習であるなら、学校で培った価値観は、障害に当たらなければ社会に出ても変わらないままと言えます。

しかし、学生活動の価値観と職場と言う社会には明らかな異なりがあります。

まず大きく異なる点は、労働に対して対価が発生する事であり、対価が発生すると様々な社会的制約と責任が生じます。また翌年になれば後輩が必ずエントリーしてくるという保証もありません。

学校のクラブ活動であれば、学校が存在している間は必ず新入生が入ってきます。そしてその新入生が理不尽な雑用や基礎練習に取り組まなければならないのは、学生生活を送るためや競技に出る為には必須であるからです。
それでも、学校であるので一年頑張れば自身のポジションは自動的に後輩へパスされるか、分担されることになるのが慣習であるから、理不尽な雑用は後輩にパスされるものだという価値観のみが固定され、共生や共存を構築する術を得る事が出来ません。

もし、共生や共存の術を知らぬまま社会に出たらどうなるか。少し仮説を立ててみます。

仮に、昨年まで後輩であった人に後輩が出来たとします。上記の価値観であれば、それまで引き受けてきた雑用や基礎作業は、不完全な形であっても構造的に後輩にパスされますが、後輩さんは仕事を覚える為、不完全な形で仕事を覚えている先輩からでも、指導を受けなければならなくなり、他の先輩との差異に苦しみつつ、自身との格闘を強いられながら、仕事を覚えてゆくことが必須となります。

しかし、苦難の一年を乗り越えても、後輩が入ってこなければ、後輩さんは構造的にパスを出される構造を失い、且つ、理不尽な雑用プラス現在先輩が引き受けている仕事の幾分かを引き受けなければならなくなります。
理不尽かもしれませんが、後輩さんに後輩が入ってこない事を考慮しない先輩さんにだからこそ「雑用は後輩にパスさせるものだ」と言う固定観念に縛られていて、自身の不完全さを肯定したままであるから、後輩さんがどんなに巧く仕事をこなそうとも、後輩であるが故、後輩としての扱いは継続されてしまいます。

先輩さんは構造的な理によって優越感に浸り続けることができて安泰ですが、一年間、世界と格闘し続けた後輩さんはこう思います。「なぜわたしばかり・・・・・・・」と。

無論、しっかりした指導者の元、活動を続けてきた人やチームプレーを重んじてきた人であるなら、そのような偏った思考に陥らないし、基本的なポテンシャルの高い持ち主は介護職に就かないであろうけれども、傷つくことを意図的に迂回してきた先輩さん達の立ち居振る舞いは、後輩さんの個人の生活環境や対価や待遇を差し引いて考えた時、いつまでも続く理不尽さに対して離職を考える余地を十分すぎるほど与えます。

そして、何度も同じことを言うようであるけれど、先輩に対して従順で無知な人ほど、居心地やすさを提供される代わりに、高齢者を投げ落とすに至った彼のように、巧妙に「何か」を搾取されてゆくのです。

そのような目に見えぬ事象が発生してしまうのは、先輩さん達が「なぜ私は尊敬されないのか」と自問しないからであり、学生活動の価値観を社会で破壊され、再構築を強要され、適応できるものにする作業を意図的に迂回したからなのではと思ったのです。

もし、この仮説が正解ならば、介護業界は多くの高齢者を抱えたまま、パスする相手を失うばかりか、「永遠の先輩たちの執着」によって自滅してゆくしかないのではと危惧するのです。

また、現社会は両親の介護のために離職しなければならないという問題に直面しつつあり、問題を無視できなくなった首相も支持率を安定させるため介護離職0を指針に沿えたが、自由競争にさらされた社会福祉は、競争間での格差を広げるばかりでなく、現場にアンフェアな構造をもたらし、その結果担い手不足が解消されず、介護離職を0にすることが困難になりつつあるところまで来ている。
そして、離職者が増加する事により、企業が担う損失も次第に膨れ上がってゆき、経済が停滞してしまうことに懸念を抱くけれども、時間は未来へ進んでいるのであるから、ある日突然神の手によって恩寵がもたらされるかもしれないとも思うのです。