硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

クリスマスイヴ。

2016-12-24 22:16:05 | 日記
今日はクリスマスイヴ。かといって特に何をするわけでもないけれど、此処の処考えているキリスト教への信仰心について少しだけ述べておこうと思います。

マタイの福音書、第14・28節~31節にこのようなお話があります。

するとペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまでこい、とお命じになってください」
イエスは、「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは船から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。
ところが、風を見て怖くなり、沈みかけたので呼び出し、
「主よ。助けてください」と言った。
そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。
「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」

イエスが夜中の三時頃、先に船で湖を渡っていた弟子たちに向かって、湖の上を歩いて行かれたイエスの姿を見た弟子たちが「あれは幽霊だと」恐れたという物語の一節です。

僕は、この物語は人の信仰心を見事に表しているのではないかと思っているのです。

私はイエスの弟子だ。と自負する弟子たちが、師と崇めるイエスを怖がるのです。
そして、自身の信仰心を信じていたペテロすら、風に恐れをなし、溺れかけます。

ぺテロと言えば、こんな物語もあります。イエスが裁かれる際、イエスと一緒にいたことを女中の一人から言われ、
裁かれることを恐れたぺテロは「そんな人は知らない」と言ってしまいます。
(マタイの福音書 第26・72節)

信仰心とは、欲望の前では、師の奇跡を間近で目撃した者たちでさえも、疑念を抱かせてしまうほど脆いものだと聖書は語り掛けているのではないでしょうか。

そして、マタイ福音書 第13・14節にはこうあります。

「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである」

イエスの言葉が真理なら、間違いはないといえるでしょう。当時のぺテロでさえも「信仰が薄い」と指摘されるのですから、洗礼を受けたからといって、イエスと共に旅をしていたぺテロより「信仰が濃い」ことにはならないと思うのです。

クリスチャンにとっては厳しい指摘かも知れません。しかし、この物語が心にあると、本当に生きることが辛くなるのです。
それは、主の存在を信じて苦難を乗り越えてゆきたいという気持ちと、自身の感情に任せて流されてしまいたいという気持ちが常に葛藤するからです。

上手くまとめることが出来ませんが、最後にマタイの福音書、第28・20節のイエスの言葉を記しておこうと思います。

「また、私があなた方に命じておいた全ての事を守るように、彼らに教えなさい。見よ。私は、世の終わりまで、いつもあなたと共にいます」。

メリー・クリスマス