一昨日、eテレの「ハナシティ」という番組を観た。古い傷口が痛む思いがした。今朝の朝刊の一面に『「学校、無理」。そう思ったら。』という見出しを観て、現代では社会問題として取り扱われているんだなと感じた。
微力ながら前進はしている。と思いたいけれど、いじめが原因で学校に行けなくなってしまった人が少なからずいる事は事実である。いじめられる原因はさまざまであるけれど、いじめられるのはいつも少数派であるので、あまり問題にならない。つらくて自殺する子供がいるのに、それでも、この進度であることは、仕組みを作る大人の多くが、大した問題ではないと捉えているからではないかと思う。
異を唱える少数派や、協調性にかけてしまうと、どうしても多数派の同調圧力による差別が生じてしまうのは、集団社会の中で生きている以上、避けられない事です。また、社会に出ても、同じようなふるまいを続けていると、自立する以外、社会でも同じような立ち位置にはまり込んでしまうようです。
これは、僕が今まで生きてきた経験の中から導き出した一つの答えです。
勉強し、良い学校へ進学し、大きな企業に勤めることが目標になるのであれば、他者との折り合いを上手くつけていかなければならない。と、想っている大人が多数派を占めているから、そうではない道を模索して違和感を感じている少年少女たちは、どうしても弾かれてしまいがちになります。
未来は不確定だけれど、生き方というのは、他者の価値観に囚われなければ自由。誰かに活動を拘束されたりしなければ、学校へ行かなくても生きることは出来る。ただ、社会に出た時、どこかに所属するという選択をしなければならない場合、その窓口は極端に狭くなるし、大きな収入は得られないこともしばしば。
でも、モノに執着せず、自身の生き方を他者の生き方と比べなければ、全然、生きてゆけるのです。
独学で勉強し、つまらない、中学や高校をスルーし、大学で好きなこと好きなだけ学ぶことができるなら、その道を選んでも、何の問題もない。そこから開ける道は広大。
大人は結果が良ければ、その過程がどうであれ、手のひらを反すように納得するようです。
なんだか矛盾しているようですが、世の中は矛盾している事ばかりです。だから、「ありのままで」という考え方が脚光を浴びるのだと思います。
僕も時々思う事なのですが、生きる意味はとか、生きている意味がないという「考え方」に囚われてしまうと、急に生きづらくなります。だから、そういう時は「そんなことは考えないでおこう」と自身に言い聞かせます。そして「これでいいのだ!」と強く思うようにしています。
いじめはなくなりません。真剣にぶつかり合い、勝ち続ける事でしか、相手の変化は期待できません。それは、社会に出ても然りです。ネガティブで絶望的かもしれません。それこそ、生きていてもしょうがないじゃないかと思うかもしれません。でも、生きていれば、人生の「師匠」に出会えるかもしれません。この人についてゆこうと思える人と巡り合えるのは、とても幸せな事です。その事で、人生観が変わったり、師の影響によって性格も変わったりします。また、世の中のわずらわしさを忘れるほどに没頭できる事に出会えるかもしれません。それが、自身の未来を切り開いてゆくきっかけになるかもしれません。
本当に好きな人に出会い、人生の苦楽を共感しあい、新しい家族として生きてゆき、それがあなたの幸福であったと感じられるかもしれません。
世の中の多数派が生きているような、生き方すらもできないかもしれませんが、それでも、その中に「小さな幸せ」を見つけ、心の支えになるかもしれません。
都市で生きてゆくのが嫌ならば、地方に出て、農業や林業や漁業に就くと価値観が変わってよい人生が送れるかもしれません。地方で生きづらさを感じるなら、都市へ行き、刺激的な日常の中で生きがいを見つけることが出来るかもしれません。
人はいつか死んでしまいます。また、突然、事故や病が襲い、命を奪われたり、障碍を持ってしまう事もあります。その中で、本当に絶望を感じる事もあります。それでも、人は「誰かのために」生きていかねばならない状況に置かれたりします。それは、人によっては、ひどく辛い日々を送る事になるかもしれません。
未来は常に不確定です。もしかすると予定調和なのかもしれません。それは私達には分からない事なので、考えてもしょうがないのです。
最後の最後に頼れるのは、自分の意思であり、自助力です。流されて自堕落に生きてゆくと、その匂いをかぎ分けて食い物にしようとする人たちがいます。だから、学校へ行くのが辛ければ、学校へは行かず、自堕落にならずに、移り変わる四季を感じながら、ちゃんとお日様を浴びて、日々を好日にして、日々を重ねてゆけば良いと思います。
死んでしまったらおしまいですが、おしまいではないかもしれません。
それは、誰も分からない事ですが、もし仮に、おしまいではないとするなら、そこで、生前より辛い日々が待ち受けているかもしれません。だったら、なんとなくでも生きていた方がよい事が起こる可能性の方が多いと思うのです。
この拙い言葉が、少しでも、生きてみようかなと思うきっかけになれれば幸いです。
微力ながら前進はしている。と思いたいけれど、いじめが原因で学校に行けなくなってしまった人が少なからずいる事は事実である。いじめられる原因はさまざまであるけれど、いじめられるのはいつも少数派であるので、あまり問題にならない。つらくて自殺する子供がいるのに、それでも、この進度であることは、仕組みを作る大人の多くが、大した問題ではないと捉えているからではないかと思う。
異を唱える少数派や、協調性にかけてしまうと、どうしても多数派の同調圧力による差別が生じてしまうのは、集団社会の中で生きている以上、避けられない事です。また、社会に出ても、同じようなふるまいを続けていると、自立する以外、社会でも同じような立ち位置にはまり込んでしまうようです。
これは、僕が今まで生きてきた経験の中から導き出した一つの答えです。
勉強し、良い学校へ進学し、大きな企業に勤めることが目標になるのであれば、他者との折り合いを上手くつけていかなければならない。と、想っている大人が多数派を占めているから、そうではない道を模索して違和感を感じている少年少女たちは、どうしても弾かれてしまいがちになります。
未来は不確定だけれど、生き方というのは、他者の価値観に囚われなければ自由。誰かに活動を拘束されたりしなければ、学校へ行かなくても生きることは出来る。ただ、社会に出た時、どこかに所属するという選択をしなければならない場合、その窓口は極端に狭くなるし、大きな収入は得られないこともしばしば。
でも、モノに執着せず、自身の生き方を他者の生き方と比べなければ、全然、生きてゆけるのです。
独学で勉強し、つまらない、中学や高校をスルーし、大学で好きなこと好きなだけ学ぶことができるなら、その道を選んでも、何の問題もない。そこから開ける道は広大。
大人は結果が良ければ、その過程がどうであれ、手のひらを反すように納得するようです。
なんだか矛盾しているようですが、世の中は矛盾している事ばかりです。だから、「ありのままで」という考え方が脚光を浴びるのだと思います。
僕も時々思う事なのですが、生きる意味はとか、生きている意味がないという「考え方」に囚われてしまうと、急に生きづらくなります。だから、そういう時は「そんなことは考えないでおこう」と自身に言い聞かせます。そして「これでいいのだ!」と強く思うようにしています。
いじめはなくなりません。真剣にぶつかり合い、勝ち続ける事でしか、相手の変化は期待できません。それは、社会に出ても然りです。ネガティブで絶望的かもしれません。それこそ、生きていてもしょうがないじゃないかと思うかもしれません。でも、生きていれば、人生の「師匠」に出会えるかもしれません。この人についてゆこうと思える人と巡り合えるのは、とても幸せな事です。その事で、人生観が変わったり、師の影響によって性格も変わったりします。また、世の中のわずらわしさを忘れるほどに没頭できる事に出会えるかもしれません。それが、自身の未来を切り開いてゆくきっかけになるかもしれません。
本当に好きな人に出会い、人生の苦楽を共感しあい、新しい家族として生きてゆき、それがあなたの幸福であったと感じられるかもしれません。
世の中の多数派が生きているような、生き方すらもできないかもしれませんが、それでも、その中に「小さな幸せ」を見つけ、心の支えになるかもしれません。
都市で生きてゆくのが嫌ならば、地方に出て、農業や林業や漁業に就くと価値観が変わってよい人生が送れるかもしれません。地方で生きづらさを感じるなら、都市へ行き、刺激的な日常の中で生きがいを見つけることが出来るかもしれません。
人はいつか死んでしまいます。また、突然、事故や病が襲い、命を奪われたり、障碍を持ってしまう事もあります。その中で、本当に絶望を感じる事もあります。それでも、人は「誰かのために」生きていかねばならない状況に置かれたりします。それは、人によっては、ひどく辛い日々を送る事になるかもしれません。
未来は常に不確定です。もしかすると予定調和なのかもしれません。それは私達には分からない事なので、考えてもしょうがないのです。
最後の最後に頼れるのは、自分の意思であり、自助力です。流されて自堕落に生きてゆくと、その匂いをかぎ分けて食い物にしようとする人たちがいます。だから、学校へ行くのが辛ければ、学校へは行かず、自堕落にならずに、移り変わる四季を感じながら、ちゃんとお日様を浴びて、日々を好日にして、日々を重ねてゆけば良いと思います。
死んでしまったらおしまいですが、おしまいではないかもしれません。
それは、誰も分からない事ですが、もし仮に、おしまいではないとするなら、そこで、生前より辛い日々が待ち受けているかもしれません。だったら、なんとなくでも生きていた方がよい事が起こる可能性の方が多いと思うのです。
この拙い言葉が、少しでも、生きてみようかなと思うきっかけになれれば幸いです。