散歩をしていると、道端の土手で草を刈っている自治会の役員の方に出会ってしまった。
気まずいなと思いながらも、挨拶をすると、笑顔を見せながらこちらに近づいてきて話しかけられる。
これは長くなるぞと覚悟し、しばし話に聞き入る。
話題の主題は僕の住む地域についてであったが、長い話の中にも興味深い話があった。
今回はそれを一石。
地方都市のサイドコーナーで、過疎化の進む地域では、自治会の存続も危うくなりつつあり、次の自治会長や役員の引継ぎ問題が顕著になってきている。
つまり、「引き受けたい人がいない」問題である。
一昔前ならば、地域一帯が農家で、農業が生業であることが普通だった。もちろん、自営の農家になるので、定年もなく農業に専念することが一番大事だった。
だから、その地域の中でも、その地域で暮らす農家に向けた農業ではない職種を生業とする人や、役所勤めをされていた人たちが、これまでの自治会を取り仕切る形になっていた。しかし、今では、その人たちも鬼籍に入り、その次の世代は勤めに出ている人がほとんどなので、勤め先の事などが優先になったので、地域の事を主として活動できる人がいなくなった。
それは、田舎の自治会の「あるある」なのではないかと思うが、興味をひかれたのがそこではなくて、「区割り」の話であった。
僕の住む町では、回覧板があり、それを地区の中でもさらに9つくらいに割った区域で回している。そして、その9つの区画の中には、それぞれに「名称」があり、たとえば、「何々谷」とか「何々原」という呼び方で分けていた。
その名称は、僕の世代になると、ほとんどなじみがないのであるが、10年上の世代になると、その慣習が残っていて、80代以上の人になるとその名称に愛着のある方がいる。
最近になって、立派な門構えのあった空き家が取り壊さえ、そこに新しい家族が家を建てて移り住んできた。
その事象は、人口が増えていい事なのであるが、年配者の人達にとっては、その家族はどの区画に入ってもらうかで、揉めている。
僕からしてみれば、どこでもよいのではと思うのであるが、昔からの名称に愛着のある元役員の人が「あそこは、あの筋だから何々原に入ってもらおう」と言い出した。
すると、そのとなりの何々谷の元役員の人が「いやいや、あそこは何々谷だから、うちにはいってもらおう」という話になったようである。
そう言う事態に陥ったのは何故なのかを疑問に思ったので、なるべく角が立たないように聞いてみると、さらに不可解な話が聞けたのである。
僕の地区の住人は70名ほどで、一区画8名ほどなのであるが、なぜだか「こちらのが上だから」というような考え方をする人がいるようである。
確かに、街道沿いに立ち並んだ今では朽ちかけているお屋敷の家々からしてみれば、他の家は、戦後の農地改革によって、土地を持てたのだから、その記憶が色褪せない人々にとって、そのような価値観はまだ残っているのかもしれない。
また、先駆的な考えの人が、「名称を廃止して、数字で区分けした方が分かりやすいのでは」と意見すると、名称に愛着のある人たちから反対されたということもあったようであることから、「何々原」や「何々谷」という、住所にも載らない名称にはブランド力もあるようである。
しかし、子供がいなくなり過疎化も進んでいる状況の中で、新しい家族が住んでくれるようになったのに、新しい住人には関係のない価値観で揉めているのである。
それでいて、小学校の合併や廃校に反対をしているのだから、上手く理解できない。
牧歌的で、縦社会で、田畑や山や川が、住民の皆の力で守られていた時代の価値観そのままに、自治も執り行おうとするのは、年配者の過ぎ去った時代への執着としか思えないのであるが、それは、いつの時代の移り変わりでもあったことであろうから仕方のない事なのかもしれないとは思う。
でも、70人しか住んでいない、しかも7割が高齢者である地域で、10戸未満の区割にもこだわっている人がいる事を知って、「こんな身近な所に国境があっただなんて」と、複雑な気持ちになった。
そして、ふと思った。平和というものは意外と脆い土壌の上に存在しているのかもしれないと。
気まずいなと思いながらも、挨拶をすると、笑顔を見せながらこちらに近づいてきて話しかけられる。
これは長くなるぞと覚悟し、しばし話に聞き入る。
話題の主題は僕の住む地域についてであったが、長い話の中にも興味深い話があった。
今回はそれを一石。
地方都市のサイドコーナーで、過疎化の進む地域では、自治会の存続も危うくなりつつあり、次の自治会長や役員の引継ぎ問題が顕著になってきている。
つまり、「引き受けたい人がいない」問題である。
一昔前ならば、地域一帯が農家で、農業が生業であることが普通だった。もちろん、自営の農家になるので、定年もなく農業に専念することが一番大事だった。
だから、その地域の中でも、その地域で暮らす農家に向けた農業ではない職種を生業とする人や、役所勤めをされていた人たちが、これまでの自治会を取り仕切る形になっていた。しかし、今では、その人たちも鬼籍に入り、その次の世代は勤めに出ている人がほとんどなので、勤め先の事などが優先になったので、地域の事を主として活動できる人がいなくなった。
それは、田舎の自治会の「あるある」なのではないかと思うが、興味をひかれたのがそこではなくて、「区割り」の話であった。
僕の住む町では、回覧板があり、それを地区の中でもさらに9つくらいに割った区域で回している。そして、その9つの区画の中には、それぞれに「名称」があり、たとえば、「何々谷」とか「何々原」という呼び方で分けていた。
その名称は、僕の世代になると、ほとんどなじみがないのであるが、10年上の世代になると、その慣習が残っていて、80代以上の人になるとその名称に愛着のある方がいる。
最近になって、立派な門構えのあった空き家が取り壊さえ、そこに新しい家族が家を建てて移り住んできた。
その事象は、人口が増えていい事なのであるが、年配者の人達にとっては、その家族はどの区画に入ってもらうかで、揉めている。
僕からしてみれば、どこでもよいのではと思うのであるが、昔からの名称に愛着のある元役員の人が「あそこは、あの筋だから何々原に入ってもらおう」と言い出した。
すると、そのとなりの何々谷の元役員の人が「いやいや、あそこは何々谷だから、うちにはいってもらおう」という話になったようである。
そう言う事態に陥ったのは何故なのかを疑問に思ったので、なるべく角が立たないように聞いてみると、さらに不可解な話が聞けたのである。
僕の地区の住人は70名ほどで、一区画8名ほどなのであるが、なぜだか「こちらのが上だから」というような考え方をする人がいるようである。
確かに、街道沿いに立ち並んだ今では朽ちかけているお屋敷の家々からしてみれば、他の家は、戦後の農地改革によって、土地を持てたのだから、その記憶が色褪せない人々にとって、そのような価値観はまだ残っているのかもしれない。
また、先駆的な考えの人が、「名称を廃止して、数字で区分けした方が分かりやすいのでは」と意見すると、名称に愛着のある人たちから反対されたということもあったようであることから、「何々原」や「何々谷」という、住所にも載らない名称にはブランド力もあるようである。
しかし、子供がいなくなり過疎化も進んでいる状況の中で、新しい家族が住んでくれるようになったのに、新しい住人には関係のない価値観で揉めているのである。
それでいて、小学校の合併や廃校に反対をしているのだから、上手く理解できない。
牧歌的で、縦社会で、田畑や山や川が、住民の皆の力で守られていた時代の価値観そのままに、自治も執り行おうとするのは、年配者の過ぎ去った時代への執着としか思えないのであるが、それは、いつの時代の移り変わりでもあったことであろうから仕方のない事なのかもしれないとは思う。
でも、70人しか住んでいない、しかも7割が高齢者である地域で、10戸未満の区割にもこだわっている人がいる事を知って、「こんな身近な所に国境があっただなんて」と、複雑な気持ちになった。
そして、ふと思った。平和というものは意外と脆い土壌の上に存在しているのかもしれないと。