硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

古の時代から三十三間堂が存在する意味。

2023-10-05 20:53:35 | 日記
三十三間堂に行く。

なぜか時々、千一体の観音像を観たくなる時がやってくるのである。
そして、拝観するたびに興味深くなってくるのである。

じっくり拝観していると外国のツーリストや国内の修学旅行生が慌ただしく目の前を通り過ぎていった。
若かりし頃の僕も、こんな感じだったなと思いながら千手観音像を観ていたのであるが、突然、ある考えに至った。

「後白河上皇はなにに恐怖を抱いていたのであろうか」と。

これだけ大掛かりで荘厳な寺院を、時の権力者の力を借りてまで建立するのであるから、民の為というよりも、何かを「封じ込めなければならなかった」と考えた方が、莫大なお金と時間をかけたことにも納得がいくのである。

建立した理由は、史実によると、頭痛に悩まされていた後白河上皇が熊野権現のお告げによるものとされているが、時代は戦乱の時代である。
戦乱の時代とは、沢山の人が権力争いの末に、罪なきものでさえ殺してゆくのであるから、命を落とす人々の念もすさまじいものであったことは想像に難しくない。

念は恨みとなり呪いとなるものである。

もし、後白河上皇が鈍感な人物であったなら、見えないものは見えないはずであり、感じないものは、感じないものだったであろう。
だとすれば、頭痛の原因は、「何かに憑りつかれていた」と考えてもおかしくはないであろう。

また、境内の「法然塔」も鎮魂の為に安置したのではないだろうか。

「法然塔」の説明には、1204年に土御門天皇が後白河法皇の13回忌を行う際に法然は声楽に秀でた僧侶を集めて法要を修したとある。
しかし、その3年後、法然と門弟たちは、「承元の法難」と呼ばれる罪に問われ、門弟4人が死罪、法然と門弟7人が流罪とされているのである。

その頃、土御門天皇はまだ幼く、実権は後鳥羽上皇が握っていたと考えられており、後鳥羽上皇が判断したであろうと考えられているが、その罪が冤罪である疑いがあるのである。

もし冤罪であって、後鳥羽上皇も後に、その事実を何らかの形で知りえたとしたならば、あえて蓮華王院の境内に法然塔を安置したことも納得がいくのである。

当時は、見えないものへの畏怖は弔うことでしか拭えない時代だった。

つまり、三十三間堂とは、権力争いで殺されてしまった人々の怨念をあらゆる神仏の力によって封印し、今もなお供養し続けている、そういう場所なのではないかと思った。