「カウンセリングは魔法」みたいなことを書いたけど、結果的にその日に私が感じた感想で、それはクライエントとしてのものです。
プロの人たちは決して、自分は魔法が使えるなどという勘違いはしていないので、誤解しないでください。
そして、カウンセリングというのは言葉のやりとりという「行為」だと思っていましたが、それは違っていて、カウンセリングというのは、「関係」であるようです。
そのことについては、これから学びます。
とりあえず、明日は学校。
「カウンセリングは魔法」みたいなことを書いたけど、結果的にその日に私が感じた感想で、それはクライエントとしてのものです。
プロの人たちは決して、自分は魔法が使えるなどという勘違いはしていないので、誤解しないでください。
そして、カウンセリングというのは言葉のやりとりという「行為」だと思っていましたが、それは違っていて、カウンセリングというのは、「関係」であるようです。
そのことについては、これから学びます。
とりあえず、明日は学校。
「自分だけが不幸」と思うことは、みっともないこと、恥ずかしいことだと思って生きてきた。
「自己憐憫からは何も生まれない」と、昔、自助グループで教わった。
どんな時でも、「今あるもの」を数えて生きる、日常の小さなことに幸せを感じて生きる、と決めていた。
誰にでも、幸せを求める権利がある。
同時に、不幸を感じる自由もある。と、このごろなんとなく考えている。
子どもがすくすく伸びていくように、人は、阻害されなければ、自然に前向きに生きていける力を持っている。
あえて「前向きに」などと言われなくても、だ。
「自分が世界一不幸」と思っている人は、そういうステップが多分必要で、そこにいるんだと思う。
ステップでなく、もしも「私は世界一不幸なの」とずーっと思いながら一生を終える人がいたとしたら、それは哀しい人生だとは思うけど、それだって、その人の自由だ。
別に周りが批判するものではない。
不幸になる自由が、私にはなかった。
どん底にいても、健気に頑張る、という呪いをかけられていた。
私はとても不幸だ。
自分はとてもかわいそうだと思っている。
「不幸だ」などと言えば、言われた側は居心地が悪いし、不安になったり焦ったりするし、なんとかしてあげなくちゃって思うだろう。
それがわかってるから、そんなこと言うどころか、顔に出してもいけないって、感じてもいけないって、思い込んでいた。
みんなに「かわいそう」っていたわられたいわけじゃない。
ただ、「今、私は世界一不幸だ」と思って立ち止まる、その自由が確保されたいだけなんだ。
「不幸」って、主観だから。