今日一日だけ生きてみよう

卯月タラの日々のつぶやき

階段。

2011-06-05 20:42:35 | タラの日記

卯月です。

明日お会いする臨床心理士のA先生が、もう十何年も前に、私のカウンセリングを始めて間もない頃に言った言葉。
「たとえばあなたの心の扉まで行くのに、50段の階段があるとして、2度目でも3度目でも近道はなくて、あなたに会いに行くためにはいつも必ずその50段をきちんと上らなくちゃいけないのよね」というような内容の言葉だったと思う。

私は心にたどり着くための階段があると思ったことはなかったし、そういう発想自体がなかったので、とても驚いた。

でも、多分今でもだけど、私の心の扉は鍵が壊れているので、「鍵がかかっていないのだから入ってもいいんだろう」って思うのが普通で、勝手に踏み込まれても文句は言えない、鍵を直せない私が悪いんだ、って思っていた。
だから、A先生が必ず50段上る、という約束をしてくださったときに、生まれて初めて、「人に大切にされる、人格を尊重されるって、こういうことなんだ」ということを知った。

私がA先生に心を開くことができたのは、この約束があったからだった。

今でもこのことを忘れない。

階段がみんなにあるのかどうか、何段あるのか、それは私にはわからないけど、私も「仲良しなんだから近道していいよね」「エレベーターないの?」ってならないように、気をつけよう、って思う。
階段を上ってでも触れ合いたいと思える、そういうつながりを大切にしていく。

私は、歩いている。


わかる、ということ。

2011-06-02 17:42:09 | タラの日記
卯月です。

これまでいろんな友達の話を聞いた。
友達には誠実でありたいと思い、親身になって話を聞いてきたし、それは今後もそうでありたいと思っている。
ただ、「あなたの気持ち、わかるよ」的な言葉を、私は多分いろんな人にたくさん使ってきたように思う。
それについて、撤回し、お詫びしたいと思ってる。
私が「わかるよ」と軽はずみに言葉をかけてしまった多くの人たち、本当にごめんなさい。

私でない誰かの気持ちを、汲み取ろうとすることはできるだろう(余裕があればだけど)。
でも、「わかる」は違う。
「わかる」と思うのは無自覚な驕りだし、「わかるよ」という言葉が、人の傷を深くすることもある。
共感が錯覚のこともあるし、単なる押し付けで迷惑なこともある。

今の私は、人に共感を求めないし、わかってもらいたいと思っていない。
「わかる」という言葉は、侵食する言葉だと思っている。
人の心に簡単に踏み込むことは、してはいけないことだ。

わかろうとして想像力を働かせる人でありたいとは思う。
黙っていることは難しい。でも、わかったような安い言葉を大サービスするのはやめようと思う。
黙っていることが、一番の優しさかもしれない。
私にはわからないのだ、という事実を受け止めた上で、自分の立場からできる支えは何だろう、と慎重に考えられる人間でありたい。

距離を取れる関係こそが対等だ。