上のほうは各国語版Wikipediaの「サンチアゴ騎士団」のページが並んでいますが、アルバレスについてわかるのは任期のみです。 現時点で上から9つ目に、私もちょくちょく利用する家系サイトさんがヒットしているのですが、抜粋されたテキストには、 「Master of the Order of Santiago 1359, resigned 1366. 」 という文言が! 1366年に「辞任」ですかい?! さらに他のサイトさんも見てみると、またまた機械翻訳の解読となりますが、書いてあることは、だいたい同じ。 つまりは、エンリケが腹心のメヒアをサンチアゴ騎士団長に据えたくて、領地やお金と引き換えにアルバレスにやめてもらった・・・ということのようですね。 うーん、「エンリケの恩寵」につられたか~。 ディエゴ兄だけじゃなかったのか~(苦笑)。 アルバレスは1370年に亡くなったようですが(家系サイト参照)、それまでどうしていたのでしょうね?
スペイン語版Wikipediaの王様のページ、「色白金髪の美丈夫」の文と同じパラグラフに、サンチョとディエゴの母であるイサベルについて次のように書いてあります。 Otros dos hijos de Pedro, llamados Sancho y Diego, tuvieron por madre a Isabel, aya del niño Alfonso, hijo del rey y de María de Padilla. これによると、アルフォンソの乳母だったのは、イサベル(・デ・サンドバル)だったんですね~。 とすると、ウラカは、マリア・デ・イネストロサとイサベルをミックスしたキャラクターだったんでしょうか。
One of the first women to wear white at her wedding was Mary Queen of Scots, when she married François II of France. However, the choice was seen as very inauspicious, as the colour white was the official colour of mourning in France during the time. メアリの時代のフランスでは、白といったら「喪の色」だったので、縁起が悪かったらしいですね~。
キャストを見ると、王様の次にコロネル姉妹の名があるのに、マリア・デ・パディーリャの名は見当たらない~! 40年以上前のイタリア・スペイン合作の映画のようですが、どーいう内容なのか、気になるわ~(苦笑)。 イタリア語の原題「SFIDA AL RE DI CASTIGLIA」を機械翻訳すると、「CHALLENGE TO THE KING OF CASTILE」・・・ということは、王様ってば悪者~?
サンチャ・デ・カスタニェダは、ペロ・カリリョの妻だと思われます。 Cas? con: = marry with にサンチャの名前が続き、 Padres de: = parents of に続く、次の赤文字の名前の人物、 IX - G?MEZ CARRILLO. が、後を継いだ子ということになるんじゃないかな~。 ここの説明だと、ペロには子供が一人しかいなかったか、名前が一人しかわかってないということみたいですね。
まずは、悪いこと。 バケツを引っくり返したような雨が降ったせいで、また雨漏れがして、とうとう天井が落ちてきました。音といの朝方に「ドサ!」という音がするので、息子がベッドから落ちたのかと思い「大丈夫~?」と声をかけると「大丈夫~」というので、そのまま又寝ちゃいました。朝起きてリビングルームに行くと何だか妙に散らかっているんですね。で、ふと上を見ると天井が落ちているではありませんか!散らかっているのは落ちてきた天井が木っ端微塵になって床に散乱していたからでした。昨日は天井の修復交渉で大変でした。 天井災難でヘロヘロになってテレビを何気につけてみると、PBSという日本でいえばNHKのような公共テレビ局でなにやら歴史物をやっているんですね。よーく観るとどうやらスペイン物なんですよ。それは、「Cities of Light: The Rise and Fall of Islamic Spain」という歴史番組!もう見入っちゃいましたよ。もちろんペドロ1世の頃の話もチョロっと出てきました。 歴史を通して、イスラム教とユダヤ教とキリスト教がいかにスペインの中で良くも悪くも作用してきたかという番組なんですけど、うまく融合政策が行われると社会が安定し素晴らしい文化を生み、キリスト教だけとかイスラム教だけとかいう支配者が出てくるとユダヤ人が必ず迫害を受けて社会が荒れたりする様がドキュメンタリータッチで描かれていました。 ペドロ1世の建てたアルカサルの持つ文化的意味合いがきっちり説明されていて、とても嬉しかったです。また、アルカサルと同時期に建てられたと言うエル・レビのシナゴークも紹介されました。きれいな画面でうっとり。天井災難を忘れて浸ってしまいました。 ちなみに30ドルでDVDが出ているとの事で、買うべきかどうか悩んでます。 それからhttp://www.brightcove.com/title.jsp?title=987743883&channel=13763974でいくつか番組紹介のクリップが観られます。アルフォンソ10世による異教徒の迫害や、アルゴン王子フェルディナンドとカスティリア王女イザベラが結婚して異教徒を迫害する場面などがチラッと観れます。
ところが~。 「repostero mayor」で検索したら、こんなのが引っかかってしまいまして(笑)。 repostero mayor. 1.m. Antiguamente, en la casa real de Castilla, jefe a cuyo cargo estaba el mando y gobierno de todo lo perteneciente al ramo de repostería y de los empleados de ella, y era persona de las principales familias de la monarquía.
前のコメント欄のサイズを見てみたら、3桁になってました~。
読み込みに長くかかるはずですよね(苦笑)。
それではまず、前々回の続きから。
実は、ロペスの疑惑の件が書いてあるなら、ディエゴ兄のことも書いてあるかと思って、後ろから遡って読んでいたら見つけてしまったのですね~。
睡魔に襲われながらの斜め読みなので、真ん中あたりは全く読めてません(苦笑)。
CHAPTER XXVIIによると、ディエゴ兄、以前の王様とのよしみはすっかり忘れて、エンリケ側についた・・・ということでしょうか。
(このサイトの記述では)すでに妹や叔父が亡くなってるからって、それはないんでないの?と言いたくもなります。
王様、ナヘラの戦いで勝った後、裏切り者達をかなり処罰したらしいから、その時にディエゴ兄も捕まったのかしら?
アルバレスの件も、どうにも気になってしまったので、検索かけてみました。
歴代サンチアゴ騎士団長のリスト(スペイン語版Wikipedia参照)より、フルネームがGarcía Álvarez de Toledoなのを確認、任期が終わった1366年などもついでにキーワード指定して検索した結果・・・。
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=+%22Garc%C3%ADa+%C3%81lvarez+de+Toledo%22+1366+enrique+santiago&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
上のほうは各国語版Wikipediaの「サンチアゴ騎士団」のページが並んでいますが、アルバレスについてわかるのは任期のみです。
現時点で上から9つ目に、私もちょくちょく利用する家系サイトさんがヒットしているのですが、抜粋されたテキストには、
「Master of the Order of Santiago 1359, resigned 1366. 」
という文言が!
1366年に「辞任」ですかい?!
さらに他のサイトさんも見てみると、またまた機械翻訳の解読となりますが、書いてあることは、だいたい同じ。
つまりは、エンリケが腹心のメヒアをサンチアゴ騎士団長に据えたくて、領地やお金と引き換えにアルバレスにやめてもらった・・・ということのようですね。
うーん、「エンリケの恩寵」につられたか~。
ディエゴ兄だけじゃなかったのか~(苦笑)。
アルバレスは1370年に亡くなったようですが(家系サイト参照)、それまでどうしていたのでしょうね?
出来たところまで貼り付けておきます。
全く見直ししてないので、超駄文ですが、翻訳機よりはマシでしょう。(でも、無かったりして…。変なところがあったら教えてください。)
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第27章
ヘンリー王
さて、カスティリアでは、残酷王ペドロが弱体化した意思と権力が許す限りの範囲で、侵略に対する攻防の準備を行っていた。栄光の日々を髣髴させるような迅速さと精神力をもって王国の隅から隅まで駆け回った。独立市民の住むブルゴスを軍隊の結集地点と定めた。ブルゴスはカスティリア領地の中でも3番目の主要要塞都市であった。
しかし、近付いてくる凄まじい数の軍勢に関して恐ろしい報告が多く寄せられてきた。兵士たちは皆7フィート( 210センチ) を越える巨漢ばかりで、若樹のような頑丈な腕と馬のような鋭い歯を持ち、悪魔のように戦い、剣や槍などを簡単にかわしてしまう眩いばかりに光り輝くよろいを身につけているとの噂がたっていた。
このような噂話は人々の心の中に恐怖心を植えつけ、、(イタリア)傭兵やガスリンをはじめとする有名司令官や勇敢な騎士ヒューの名声は高まり、恐怖の対象となっていった。つまり、来襲してくるのは実際の軍勢ではなく、到底抵抗できないような精神力を持った楔かたびらを着た悪魔の大群が押し寄せてくるという妄想が戦場を支配したのである。アラゴンに程近い場所で、友好的な手がこの悪魔集団に差し伸べられ、丘の上から277発の応酬砲火が発せられた。ガイドや食料などが山道で侵略者たちに出くわすことになった。
トラスタマラ家エンリケ
ナバラ王国のペドロ4世と道楽息子(エンリケのこと)は、双方とも守るつもりも無い密約を交わし、もうすでにカスティリアは自分たちの手中にあると勝手に解釈し、ペドロ1世亡き後のカスティリアの分割方法を確認しあった。
傭兵たちは、まだ敵国ではなく同盟国にいるということを信じることなく、アラゴンに入るとすぐに、いつものように強奪と略奪を始めた。ペドロ1世が、英国王の臣下が申し出た調停をもし断らずにいれば、エンリケに優勢な情勢を一気にペドロ側に取り戻すことが可能であったかもしれない。
その調停案は、ペドロ1世による相当額の支払いであったが、ペドロ1世はそれに合意することは無かった。
1366年3月、カスティリアに最初の攻撃がなされた。これは、ヒュー・ド・カルバリーがボルハの町を攻撃したときで、この町はカスティリアの手中にあったもともとはアラゴンの町である。英国人が近付いてくると、駐屯兵は遁走してしまった。その後全軍がナバール王国に退去して雪崩れ込み更にはカスティリアに入り、ボルハを征服したのと同じくらい容易にカラオラを占拠してしまった。
カラオラの町が降伏は、町の支配者たちの決定によるものであったが、忠義心の深い住民たちには耐え難い屈辱であった。その証拠に、不名誉を嘆いて怒り狂った278人の女たちが自らの髪をむしりとり、胸をたたいて悲しんだという。カラオラには負けるということを知らない武勇伝が残っているほどである。すでにローマ帝国時代から、この町の人々は堅固で忍耐を心得ていることで広く知られ、アウグスタス・シーザーがここの住人からボディーガードを雇ったことは皆の良く知るところである。
カラオラでは戴冠式が執り行われたが、基本的には先走った行為だと解釈される。フランス国、英国、アラゴン国がそれぞれ国を代表してエンリケ王のカスティリア王としての戴冠を厳粛に見守った。
ガスリンは、「ここで戴冠なされよ。この戦いで貴殿をリーダーとして仰いだ多くの諸侯に感謝の気持ちを示すためにもですぞ。そもそも貴殿の敵ペドロ王は、戦場で貴殿と立ち向かおうともしなかったではありませんか。つまり、ペドロは自らカスティリアの王座が空席になっていることを認めたことになるのですよ。」とエンリケに言った。
このようなお世辞文句や名誉を並べ立てる取り巻きたちに多少は貴族の品性を持って躊躇しつつ、最終的には世界で最高の礼儀を以って王冠を受け入れた。王冠がエンリケの頭上に載せられるや否や、テリョは王旗を掲げ、「カスティリアの新王エンリケに神のご加護を!」と叫びつつ軍隊のキャンプ地を走り回った。
そこにいる者はみな喝采し、行軍が再開された。
ちょつと気になったこと発見
エンリケたちの母、レオノール・デ・グズマンは10子に恵まれたそうですが、女子はファナ(作中ではカタリナ)だけ
なのにそのファナの生年が1330年と成っているんです~
ってことはエンリケたちよりお姉さんってことですよね?
他のサイトでも生年は1330年なんでしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%B3
またゆっくり来ます!!
Wikipediaでは、1330年が多数派ですね。
一部の系図サイトさんでは1339年というのもありますが。
ロドリゲスのモデルのフェルナンドの生年は、これまた書かれていないところが多くて、一部で1338年頃となっています。
没年のほうも、1377年説と1375年説がありますね。
二人が結婚したのは1354年で間違いなさそうだけど。
エンリケとファドリケも、サイトによっては双子じゃなかったりしますよね~(笑)。
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敵がブルゴスから1日離れただけの距離にあるとき、ペドロ王はこれからやってくる混沌に催眠術をかけられたかのように、宮殿でじっとしていた。混乱と混沌の空気が人々の間を漂い、いつ何時に何が起こってもおかしくないような雰囲気であった。王は有効な指示を出すでもなく、自らの地位や運に対し誇りを持っているようにもみえない一方で、王の周りにはまだ多くの臣下が忠誠を近い、敵を前に自らを震え起こさせるような王の言葉を待っていた。
市民たちは勇気に満ちていた。金も武器もあり、町の防御もしっかりとしていた。王が命令さえ下せば戦う準備は十分にあった。しかし、パームサンデーの前日の土曜日、馬に乗った一群が町を去る準備をしていた。また、600人のムーア人衛兵たちが門の前で整列を始めた。
「王は我々を見捨てようとされているぞ」と人々は口にし、群集が宮殿の周りに集まった。
町の長老たちがペドロ王に進み寄り、この町が全て王のためにあり王のためなら何でもすることを明言し、王が町を見捨てることなどしないよう懇願した。
王は、口ごもりながら長老たちに礼を言ったが、敵の行軍先であると思われるセビリアに向かって今すぐにでも出発しなければならないと主張した。王が去った後のことを心配する町の住民の懇願や当惑に対し、王は「自分たちで出来る限りのことをやるように」という言葉を残して、親衛隊らと共に自らの運命に向かって町を出た。
ペドロ王は明らかに自らがどうにもならない状況にあると思った。その一方で、王位をすっかりあきらめてしまう考えはまだなかったようでもある。というのは、今日、ペドロ王の考えた兵の動かし方や指示系統の内容を検証すると、その防衛計画の概要がそれを物語っているからである。アラゴンの前線の町全てに駐屯している司令官たちに便りを送り、持ち場を放棄し、トレドに集結して王と一緒に戦うよう命令を下した。激戦を覚悟の上、スペインの内陸部に軍を集結し、天候とゲリラ戦を武器に戦おうとしていたようである。このような戦略は、イベリア半島やフランスの戦いでしばしば用いられたもので、十分に効果が期待できた。しかし、貴族たちからの忠誠を失ったペドロ王にこの戦略は功を奏すことは無かった。
自らの君主に見捨てられたブルゴスの町は、エンリケを受け入れるべく町の門を開き、翌日ラス・エルガス修道院の教会で二度目の戴冠式が執り行われた。
新王は、自らの信奉者や後援者たちに新たな名誉や肩書きを惜しむことなく与えることで自分の即位を有名なものにした(エンリケの恩寵)。ゲスリンには自らの家名であるトラスタマラを授け、ヒュー騎士をカリオンの領主とし、コンデ・デ・デニアはマーキス・デ・ビレナとなった。テリョは、ビスケー領主の地位を再開し、サンチョは、王国に没収されていた亡きホアン・デ・アルバカーキーの領地を相続(息子死亡の為)した。
勲爵士たちに莫大な量の恩典や名誉や爵位がばら撒かれ、そのなんとも容易な寛大さはエンリケの恩寵と呼ばれ、偉業をなしえる前でも手にすることが出来るご褒美として有名になった。もっとも、このエピソードに関しては、どこかの権力者が分に合わない恩恵を気前よく施した場合、「スペインのカスティリア」と言うほうがより一般的な表現ではあるが。
ペドロ王は、トレドに短期間滞在した後、セビリアに向かった。王の行軍は、おかしなことに自分の見方や廷臣の多くを王位簒奪者の旗の下に取られる結果とはならなかった。寝返りの1つは、ペドロ王のことをすっかり忘れたかのように新王のもとに走ったカラトラバ騎士団長のディエゴ・デ・パディーラであった。
ガルシ・アルバレスは2つの広大な領土と莫大な額のお金を引き換えにエンリケ軍にトレドを売却した。エンリケ新王はトレドにてトラスタマラ朝カスティリア王国の最初の謁見式を行い、多くの代表団や貴族たちから忠誠の宣言を受けた。保護者としてのペドロ王に敬意を払っていたユダヤ人たちは、この新王から、古い忠誠心に対する代価を払うよう強要された。結果、ユダヤ人からは巨額の寄付金が搾り取られた。
ペドロ王朝にとって心臓部であり、ペドロ王がこよなく愛し、少年期を過ごしたセビリアでさえ、民衆の持つエンリケに対する敵意は結束しているというより他人事のような雰囲気が漂っているとペドロ王は感じていた。
異教徒とユダヤ人たちによる邪悪な同盟軍の噂や、ムーア人による侵略の話が人々の間に広まり、王の立場が悪くなっていった。激昂した群集がアルカサルの周りに押し寄せたとき、町では騒動が発生し、不吉な様相で広がって行った。
ペドロ王がセビリアに到着して一番最初にやったことのひとつは、自分の娘ベアトリスに忠実な家臣をつけてポルトガルに送り出したことである。ベアトリスはポルトガル王族と婚約をしていたからである。このとき娘には、婚約時に交わした約束の持参金と、母親マリア・デ・パディーラの形見の宝石を大量に持たせてやった。
セビリアの人々が抱いていた不満はすぐに完全な暴動の形となり、王宮の破壊が始まった。暴徒化した民衆が王宮を略奪しながら狂ったように駆け回る中、2人の娘コンスタンザとイザベル、アルカンタラ騎士団長のマルティン・ロペス、エンリケ王の庶娘レオノラ、そして何人かの騎士らと共に脱出を図った。
フロサーは、「妻と子供たちと一緒に」と、言っている。「つまり、ペドロ王は“寝室の女性”であるイザベラあるいは遺書の中で言及されている第2夫人以下の誰かを一緒に連れて行ったようである。」
馬に飛び乗って逃げ出すや否や、破壊という使命を帯びた群衆が雄たけびを上げてアルカサルに乱入てきた。この災難の中、ペドロ王はポルトガルに向かった。ポルトガル王の息子フェルナンドとペドロ王の娘ベアトリスの結婚は長い間計画レベルにあったが、この話が具体的にまとまれば自分の娘の義理の父となるポルトガル王から何かしら援助が得られるのではないかと希望を持った。ペドロ王はポルトガル王との謁見を試みたが、驚いたことにポルトガルへの道中で先に送り出したベアトリスに遭った。ベアトリスは不名誉にも、不誠実な同盟者から送り返されたのであった。
さっそく調べて下さったのですね~ありがとうございます
そっか~ホアナの生年1339年説もあるんだ・・・
ロドリゲスが1338年ならこっちにの方がなんかお似合いかも~
1330年だと8つも年上になっちゃうし・・・
でも1338年で結婚が1354年なら、ロドリゲスは御年16才
もし仮に8つ上だったなら、カタリナ24才・・・ありえなくはない。
それどころか、少年の心に「綺麗なお姉さん」的な憧れやこれが初恋だったとしたら、
ずーっと心に残ったのかもしれないなぁ・・・
>アルバレスの辞任
ほぇ~!!死亡じゃなくて、辞任ですか!!
しかもディエゴ兄と同じく裏切りとは・・・
王様のご苦労が察しれますね
いくら裏切りに慣れていた王様とはいえ、腹心の部下2人にこの仕打ちをされたら、辛かっただろうな~
青池さんが描くのを躊躇われた気持ちがちと判る(苦笑)
作中で、ああいうちょっとおマヌケっぽい死因にしたのは
その仕返しだったりして?!(苦笑)
だから余計にロペスやロドリゲスの忠心が後々にまで語り継がれているのかもね
KE007さん
うわ~大作の和訳ありがとこざいます!!
私もB型さんに教えてもらって機械翻訳で読んだけど、チンプンカンプンで(苦笑)
やっぱりこうやって読ませていただくと、細部がわかりますね~
>テリョとサンチョ
別サイトをみていると、このテリョとサンチョが良く出てきていたんです
本編でもテリョは出てきていたけど、サンチョは出ていなかったので、
どんな役割なのかな~と思っていたら、ダンブルケルケの所領を相続した人なんですね~
>王様の愛妾
系図サイトによると
・ホアナ・デ・カストロ(ロドリゲスの妹)
子供-ホアン
・イザベル・デ・サンドバル
子供-ディエゴとサンチョ(作中ではエンリケに幽閉されてます)
・テレサ・デ・アヤラ
子供-マリア
・マリア・デ・イネストロサ(作中ではウラカ)
子供-フェルナンド
となっていました。
他のサイトでもこの4名は表記されていたので、
公の愛妾として記録が残っているんでしょうね~
でも王様のことだから、一夜限りのお遊びもありそうな・・・(うふふ)
>ディエゴとアルバレスの裏切り
うわ~こうやって読むと絆は何処へ・・・と言う感じですね~
ディエゴは後に王様に捕まって幽閉されたとのコトですが、アルバレスの最期も気になりますね~
まだ見ていないなら是非!!
http://www.sankei.co.jp/enak/
7/18の「宝塚歌劇星組 制作発表」トコを見てください
ギルダ・・・なんとなく雰囲気出ていません?(笑)
Otros dos hijos de Pedro, llamados Sancho y Diego, tuvieron por madre a Isabel, aya del niño Alfonso, hijo del rey y de María de Padilla.
これによると、アルフォンソの乳母だったのは、イサベル(・デ・サンドバル)だったんですね~。
とすると、ウラカは、マリア・デ・イネストロサとイサベルをミックスしたキャラクターだったんでしょうか。
>(エンリケの弟の)サンチョ
この人の奥方になったベアトリスって、イネス・デ・カストロとペードロ王子(後のポルトガル王ペードロ1世)の庶子なんですよね~。
娘のレオノールは、エンリケ3世の弟でアラゴンの王位を継いだフェルナンドの妃。
その子のアラゴン王ホアン2世と2番目の奥方(ファドリケの子孫)との子がイサベル女王と結婚したフェルナンド2世。
ってことで、こちらの子孫もスペイン・ハプスブルクに繋がりましたね~(笑)。
>アルバレス
本人は、1370年に怪我が元で亡くなったようです。
驚いたことに、子孫(直系ではないかも)はスペインでも有名なアルバ公爵家に繋がっていたんですよね~。
エンリケにトレドを売ったことで、公爵家の土台を築いた・・・ということになるらしいですね。
http://es.wikipedia.org/wiki/Oropesa_%28Toledo%29
http://es.wikipedia.org/wiki/Casa_de_Alba
>宝塚版「エル・アルコン」
リンク先の写真を見ましたが・・・。
やっぱりどうしても、受け入れられない~!!
王様と違って、あちらのキャラクター達の場合は、マンガと舞台版を別物として割り切ることは難しいです。
というか、私には無理!
今日は結構仕事があったので、それほど多く時間を費やすことが出来ませんでした。来週は上司が出張なので、結構いけると思います。(仕事しろ!)
++++++
脱出のため馬に飛び乗って逃げ出すや否や、破壊・略奪という使命を帯びた群衆が雄たけびを上げてアルカサルに乱入てきた。この災難の中、ペドロ王はポルトガルに向かった。ポルトガル王の息子フェルナンドとペドロ王の娘ベアトリスの結婚は長い間計画レベルにあったが、この話が具体的にまとまれば自分の娘の義理の父となるポルトガル王から何かしら援助が得られるのではないかと希望を持った。ペドロ王はポルトガル王との謁見を試みたが、驚いたことにポルトガルへの道中で先に送り出したベアトリスに遭った。ベアトリスは不名誉にも、不誠実な同盟者から送り返されたのであった。
「フェルナンドは貴殿の娘ベアトリスとの結婚はもう望んでおらず。」 これがポルトガルからカスティリアに対するメッセージであった。カスティリアの王はいまや自らの国で放浪者・漂流者と化してしまったのである。さらに、ポルトガルはペドロ王に対して、ポルトガルに亡命しようとしたり、援助を頼み出たりしないようにとも言ってよこした。ペドロ王は言葉無くこのメッセージを聞くだけであった。後に、同行していた騎士の一人が見ている中、ペドロは、ポケットから金貨を数枚取り出し、一行が滞在していた家の屋根からばら撒いたという話が残されている。この騎士は、恐らく自らの未払いの俸給のことでも思いながら、王に対して、「このような誠意の無い国の土地に撒かれるのではなく、臣下たちに分け与えたほうがよっぽどよろしいのではないでしょうか」と進言した。王はひどく怒りながら、「確かにそうかもしれないな。そうすることにしよう。」と言い放った。「いまからばら撒いてやる。しかし、撒いたものは必ずいつかそのうちに刈り取りにやってくるぞ!」 ペドロ王の言い放ったこの予言は決して当たらず、ポルトガルは幸運であった。
あと2ヶ月ほど放浪と貧窮に苦しみ、そしてあちらこちらで戦いを重ねながら、やっとの思い出でカスティリア領モントレーにたどり着くと、王を歓迎する声が上がり、信義に厚い騎士達が再び王の周りに集まっていた。彼らはペドロ王の忠実な家来フェルナンド・デ・カストロの家臣たちであった。かなり良い種類の知らせがペドロ王に寄せられてきた。ペドロ王は、カスティリアの中にはまだエンリケに追随しない町があるということを知った。勇壮なフェルナンド・デ・カストロは、兵を募って今一度ペドロ王のために戦うことを宣言した。
自らの王国の窮地に立つペドロ王は、ゾマラ城で人目につかないようにしていた。そこからペドロ王は、当時ボルドーにいたウェールズ公に手紙を送り、自らの苦しい現状を説明し、公の伝統的英国騎士道精神で助けを出してくれるよう懇願した。(つまりヨイショをしたということ) ペドロ王は、英国王子が唯一ペドロ王が王冠を維持できる助けだという認識のもと、全霊をかけて王子が納得してくれるような巧妙な内容の手紙を書いた。ペドロ王は、昔からフランスと犬猿の仲であるカルロス王(性悪王)や、イギリスの盟友達にも援助の手紙を書いた。
ペドロ王は、サンティアゴ・デ・コンポステラで大司教を死刑に処した。
一方で、エンリケ軍は、町から町を長い凱旋行軍して歩き、ついにはセビリヤに到った。ペドロ王にとって常に一番の拠点であったセビリアで、エンリケ軍は他のどこでも得られなかったほどの歓迎を受けた。町の入り口で群集が余りにも歓迎するため、エンリケ新王は王宮に入るまでの道のりを何時間もかけて行ったほどである。誰もがエンリケ新王を人目みたいと切望して押し寄せたため、エンリケ新王が町の門に到着したのは朝だったが、アルカサルに入場したのは夕暮れ時であった。
ガルシアで特に大きないざこざ無かったことで、カスティリア全土は殆ど無血で傭兵達によって征服されたのであった。恐らく、これら抗戦好きの輩は、本物のペドロ王に会ってがっかりしたのかも知れない。つまり、武勇を見せ付けるに値しない無い敵であると思ったのであろう。いずれにせよ、エンリケ新王は、しばらくするとお金のかかる傭兵達のことを疎ましく思い始め、ガスリンに傭兵達の帰国を提案した。この新庶子王はブレトン将軍、ヒュー騎士、そして1500人ばかりの騎士だけを自分の為に残し、あとはさっさと彼らの本国フランスに送り返したいと思っていた。
コンテ・デ・ラ・マルシェやサー・デ・バーユーなど何人かは道中の危険を承知でフランスに戻って行った。
エンリケ新王との行軍中には無かった大暴れが、今まさに大規模にこれら帰還中傭兵によって繰り広げられることとなった。カスティリア王国、ナバール王国、フランス王国は彼らを通行禁止としたが、もともと戦うことが仕事の傭兵達はどこに行っても勝利を手にし、多くの殺人も犯しつつも、ある程度整然とフランスに戻り着いた。
一方、黒太子に宛てた手紙をもったペドロ王の騎士とその従者達(前出のフロサーによると、「最も哀れで嘆かわしいほど疲労していた」)がボードレーに到着し、王子が滞在していた聖アンドリュー寺院へと向かった。エドワード王子が、ペドロ王の使いの者たちから書簡を受け取りそれを読み終えると、このように述べた。「そなた達を歓待いたす。ここに滞在するが良い。回答なしにペドロ王の元に送り返すようなことはしないからな。」
王子は自室にこもり、ペドロ王からの手紙の内容を吟味した。すぐに騎士達と会議を行った。そこには、ジョン・チャンドスやウィリアム・フェルトンも参加した。
スペインから使者達がやってくると、王子は微笑みながら、「“皆さん、スペインから素晴らしい便りが来ましたよ”といった。エドワード王子はペドロ王からの手紙を騎士達の前で読み上げ、騎士達は熱心に耳を傾けて聞いた。王子は、騎士達に意見を求めた。