かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

昭和18年ごろの小学校風景

2014-10-13 | 気ままなる日々の記録

オソマツ君が母親に手を引かれて近くの小学校に入学したのは昭和18年4月1日だった。そのときの学校の正式名称は「××町立××国民学校」であったと思われます。小学校1年から6年までと高等科とばれる義務教育ではないが殆どの生徒が進学していた学年が2年併設されていました。《現在の中学1年と2年に相当します》1学年が3クラス高等科が2学年で6クラス。小学校の部が6学年で18クラス・全校で24クラス1200人規模だったと思います。田舎の学校は校舎の前が運動場で校門からグランドを右手に見ながら校舎の方へ進むと校舎の玄関へ着きます。街の学校は校舎の後ろがグランドで校門から玄関の間に気の利いた植え込みなどがあってそれだけでオソマツ君は劣等感になやまされていました。

田舎の学校は道に面して土盛りがありその上に生け垣が植えこまれていました。オソマツ君は2本の石柱の間を通って校舎の生徒用下駄箱の方へ歩きます。すると左手側に『奉安殿」があります.ここに来たら、足を止め帽子を脱いで奉安殿に最敬礼しなければなりません。奉安殿の横にあったのが『忠魂社』と『忠魂碑』です。『忠魂社』は少し小ぶりな神社でしたが、本殿の扉飾りやその前の階段もきちんと造られた銅板葺の屋根を持つお社だった記憶です。さしずめ靖国神社の末社といったところだったでしょうか。ここでは、脱帽と合掌をして、お参りしなければんりませんこの二つを忘れて通り過ぎるところを先生に見つかると、酷いお目玉をくらうことになりました。『奉安殿」は建物も厳かで、そこには天皇と皇后のお写真が安置されていました。更に教育勅語を始めとする各種の勅語が奉納されていました。忠魂碑は日露戦争以後の戦争で戦死された、××町民の名前が刻みこまれていました。

学校で卒業式や入学式など大切な式が行われるときは高等科の級長さんたちが白装束で教頭先生と奉安殿の扉を開け白木の箱を取り出し、その白木の箱に白木の棒を通して厳かに担ぎ出し式場へ運び両陛下のお写真《御真影といった)を式場正面に飾ります。つまり両陛下のご臨席を仰ぎ式典を挙行するのです。オソマツ君が聞いて腰を抜かしたのは、ある校長先生に届けられた教育勅語が手違いで別の勅語だったのにその校長先生は眼を閉じて堂々と教育勅語全文を大声でお読みになられたというエピソードです。