20年以上ぶりにカラコンを購入してみたものの
まだつけていませんが
カラコンのことで色々調べているうちに
『裸眼女子』というものを知った。
カラコンを卒業する女子のことらしい?
「ああ、私もそうだったな・・・」
と懐かしく振り返ってしまった。
********
20年以上前にカラコンを使用していた当時は
まだほとんど『カラコン』というものが広まっていない時代で
だから
つけていても『カラコン』と思われることはほとんどなく
「あのハーフっぽい子?」
と学生時代は言われていましたね
(はい、インチキ外人ぽかったんです)
つり目が優しく見えるし、雰囲気がソフトになるところが
とってもお気に入りでした
でも付け続けていると
なんだか外すのが怖くなったり
裸眼の自分が好きでなくなったり。
「カラコンの目の色の自分になりたい」
という思いが強かったですね。
ある日、カラコンの調子が悪く、
透明の普通の2週間用コンタクトにしてバイトをした日がありました。
なんだかみんな「自分の目を見てる」という気がして
カラコンではない自分の目がすごく恥ずかしかったのを覚えています。
(自意識過剰ですね)
なんでか
「恥ずかしい」
と思ってしまうんです
メイクをしていない感覚なのですかね?
そんなとき、
「ずっとこのままカラコンして、裸眼の目が恥ずかしいと思い続けて
それってどうなんだろ?」
と、ある時に考え込んだのです。
なんか、違う。
って思ったのです。
*********
カラコンの自分を知らない、
ちょうど社会人になると同時かな?
透明コンタクトに戻しました。
当時のカラコンの使用感は良くなくて
いっつもずれたりしていたので
透明コンタクトにホッとした覚えがあります
いったん、カラコンを付けなくなってしまえば
カラコンの自分も忘れてくるので
執着というものがありませんでしたね。
今でいう「カラコン卒業」ということなのだと思います。
その後は一度もカラコンに戻ることなく
10年以上前に『レーシック』を受けて
現在、完全な『裸眼生活』となりました
コンタクトを手放したその日は
感動で涙が出たくらいです(本気で)
*********
可愛く写る『写真アプリ』も似たところがあると思います。
もうね、
シワだのたるみだのくすみだのシミだの
一切消えて(笑)
黒目も大きくなって、
もはや
「自分のようで自分ではない誰か」
に変わってしまう、写真アプリ達。
自分の改良版みたいになっちゃうわけですね。
たとえばそれをSNSなど使用していたりすると
実際に会ったときに「誰お前?」となってしまうわけです
昔、私はフォトショップを使いこなしたい、と思う時期がありました。
写真を加工して、しみもシワも消せちゃうみたいだったから。
そんなときに
もっと簡単に美人に写るアプリがどんどん出てきたわけですね。
(私がこのアプリを知ったのは本当に最近なのですが 笑)
最初は面白くてよく撮っていたのですが
「これって、自分のようで自分じゃないな」
と、虚しさを覚えるようになってきたのです
仕事柄、自分の顔を定期的に撮るのですが
あまり綺麗に撮れなくても
やっぱり普通の写真にほっとする自分がいるのですね。
(まあ、普通の写真も真実を写しているかは疑問ですが)
アプリの顔って
なんか飽きるんです(笑)
(なんだろな、これ)
だから
美人アプリではなく普通に写す写真を残すようにしています。
いつの日か振り返った時に
(偽物?)の写真ばかりあってもしかたがないし。
こんなことを思っているときに
「カラコンが自分の顔と思っている時に似ているな」
と感じたわけです。
以前も「カラコン」の懐かしさに
「カラコンの目を自分の目のにできる手術とかってないのかな?」
って本気で調べた事もありました(笑)
眼球タトゥーとか
瞳を青くする手術が出たとか。
エクステをしていた時だって
「これを一生外さないで自分自身にする方法は?」
と頭部からのまつげ移植も調べたくらいです
どうにかして「自分自身」にしたかったのです。
・・・んで
今は考え方をちょっと変えてみたのです
*********
写真アプリもカラコンも「偽物」ではないと私は思います
(程度にもよりますが)多少インチキではあっても
ベースは何も変わっていないからです。
フォトショップみたいに
ピザ→女性
に加工してしまうのはもはや原型はありませんが(笑)
自分を撮っての加工なら
基本は『自分』なのですね
(ということにしておきます)
カラコンだって
自分の目にしているわけだから
「サングラス」レベルに考えたらどうなんでしょう??
私はよく
「つけまつげはマスカラ程度の感覚」
と言っていますが
別人に変わるものではないからです。
ノーメイクとのギャップに悩まれる方もいるそうですが
「メイクが濃いか薄いか程度のも」
だと思うのです。
だから、
カラコンも「別人」という感覚ではなく
あくまでも『サングラス』と思えばよいのではないかな?
私は最近そう感じます
カラコンを20年以上前にとっくに卒業していても
やっぱりカラコン効果は魅力だし
戻って来たくなるのかもしれません
卒業とかそんな深刻なものでなく
「サングラスを付ける外す」
そんなレベルだと今では思います
*********
おしゃれに年齢は必要ないと思っています。
いつまでたっても興味あることはすればいいし
「歳だから」ってあきらめるのって
なんか人間放棄している気がしちゃうんです。
私がすごく見習いたいと思ったことが、
ある全盲のご高齢の女性が
見えるか見えないかの位置にある歯を「白にしてほしい」と
何倍もする高価の実費治療にしていたことです。
歯医者さんは
「見えるか見えないかの位置なので保険治療でも良いと思いますよ」
と勧められていたのですね。
ですがその全盲の女性は
「でもせっかくだから白く綺麗にしてほしいわ」
と数千円くらいのものから10万近い歯にしてました。
もちろんお金に余裕のある方なのかもしれません。
でも
「見えない位置」でも、
自分には見えなくても、
美しさを追求するということに感動してしまったのです。
そういうのが一番おしゃれなのだな、
と。
心がおしゃれな人というのは一番素敵であると
心から感動しました。
見た目がおしゃれ、というだけでなく
「心がおしゃれ」ということを
改めて考えさせられました。
だから、
「その歳でそれって恥ずかしいくない?」
というは
あくまでも「見た目」だけでの判断。
でもそれって本当のおしゃれの意味をわかっていない気がする。
おしゃれって誰のためでも
「見た目」だけでするものでもないのだと。
自分の心を生き生きとさせるもの。
だから
人のおしゃれに対してあーどこーだ言う必要も
人からあーだこーだ言われる必要もない。
いくつになっても
自分のためにするもの。
心のためにするもの。
ということで
いくつになっても「カラコン」は卒業しなくても良いと思う
むしろ私は
ご高齢の素敵な女性が
老眼カラコンをつけて生き生きされていたら
「それ、どちらのカラコンですか」
って聞きたくなると思う(笑)
人生、楽しんだもんがち
おしゃれに年齢制限なんて必要ない、
そういう思いを忘れずにいたいと思います
P.S ここぞという時にサングラス代わりに購入したカラコンですが
まだ「ここぞ」という日が来ない
まだつけていませんが
カラコンのことで色々調べているうちに
『裸眼女子』というものを知った。
カラコンを卒業する女子のことらしい?
「ああ、私もそうだったな・・・」
と懐かしく振り返ってしまった。
********
20年以上前にカラコンを使用していた当時は
まだほとんど『カラコン』というものが広まっていない時代で
だから
つけていても『カラコン』と思われることはほとんどなく
「あのハーフっぽい子?」
と学生時代は言われていましたね
(はい、インチキ外人ぽかったんです)
つり目が優しく見えるし、雰囲気がソフトになるところが
とってもお気に入りでした
でも付け続けていると
なんだか外すのが怖くなったり
裸眼の自分が好きでなくなったり。
「カラコンの目の色の自分になりたい」
という思いが強かったですね。
ある日、カラコンの調子が悪く、
透明の普通の2週間用コンタクトにしてバイトをした日がありました。
なんだかみんな「自分の目を見てる」という気がして
カラコンではない自分の目がすごく恥ずかしかったのを覚えています。
(自意識過剰ですね)
なんでか
「恥ずかしい」
と思ってしまうんです
メイクをしていない感覚なのですかね?
そんなとき、
「ずっとこのままカラコンして、裸眼の目が恥ずかしいと思い続けて
それってどうなんだろ?」
と、ある時に考え込んだのです。
なんか、違う。
って思ったのです。
*********
カラコンの自分を知らない、
ちょうど社会人になると同時かな?
透明コンタクトに戻しました。
当時のカラコンの使用感は良くなくて
いっつもずれたりしていたので
透明コンタクトにホッとした覚えがあります
いったん、カラコンを付けなくなってしまえば
カラコンの自分も忘れてくるので
執着というものがありませんでしたね。
今でいう「カラコン卒業」ということなのだと思います。
その後は一度もカラコンに戻ることなく
10年以上前に『レーシック』を受けて
現在、完全な『裸眼生活』となりました
コンタクトを手放したその日は
感動で涙が出たくらいです(本気で)
*********
可愛く写る『写真アプリ』も似たところがあると思います。
もうね、
シワだのたるみだのくすみだのシミだの
一切消えて(笑)
黒目も大きくなって、
もはや
「自分のようで自分ではない誰か」
に変わってしまう、写真アプリ達。
自分の改良版みたいになっちゃうわけですね。
たとえばそれをSNSなど使用していたりすると
実際に会ったときに「誰お前?」となってしまうわけです
昔、私はフォトショップを使いこなしたい、と思う時期がありました。
写真を加工して、しみもシワも消せちゃうみたいだったから。
そんなときに
もっと簡単に美人に写るアプリがどんどん出てきたわけですね。
(私がこのアプリを知ったのは本当に最近なのですが 笑)
最初は面白くてよく撮っていたのですが
「これって、自分のようで自分じゃないな」
と、虚しさを覚えるようになってきたのです
仕事柄、自分の顔を定期的に撮るのですが
あまり綺麗に撮れなくても
やっぱり普通の写真にほっとする自分がいるのですね。
(まあ、普通の写真も真実を写しているかは疑問ですが)
アプリの顔って
なんか飽きるんです(笑)
(なんだろな、これ)
だから
美人アプリではなく普通に写す写真を残すようにしています。
いつの日か振り返った時に
(偽物?)の写真ばかりあってもしかたがないし。
こんなことを思っているときに
「カラコンが自分の顔と思っている時に似ているな」
と感じたわけです。
以前も「カラコン」の懐かしさに
「カラコンの目を自分の目のにできる手術とかってないのかな?」
って本気で調べた事もありました(笑)
眼球タトゥーとか
瞳を青くする手術が出たとか。
エクステをしていた時だって
「これを一生外さないで自分自身にする方法は?」
と頭部からのまつげ移植も調べたくらいです
どうにかして「自分自身」にしたかったのです。
・・・んで
今は考え方をちょっと変えてみたのです
*********
写真アプリもカラコンも「偽物」ではないと私は思います
(程度にもよりますが)多少インチキではあっても
ベースは何も変わっていないからです。
フォトショップみたいに
ピザ→女性
に加工してしまうのはもはや原型はありませんが(笑)
自分を撮っての加工なら
基本は『自分』なのですね
(ということにしておきます)
カラコンだって
自分の目にしているわけだから
「サングラス」レベルに考えたらどうなんでしょう??
私はよく
「つけまつげはマスカラ程度の感覚」
と言っていますが
別人に変わるものではないからです。
ノーメイクとのギャップに悩まれる方もいるそうですが
「メイクが濃いか薄いか程度のも」
だと思うのです。
だから、
カラコンも「別人」という感覚ではなく
あくまでも『サングラス』と思えばよいのではないかな?
私は最近そう感じます
カラコンを20年以上前にとっくに卒業していても
やっぱりカラコン効果は魅力だし
戻って来たくなるのかもしれません
卒業とかそんな深刻なものでなく
「サングラスを付ける外す」
そんなレベルだと今では思います
*********
おしゃれに年齢は必要ないと思っています。
いつまでたっても興味あることはすればいいし
「歳だから」ってあきらめるのって
なんか人間放棄している気がしちゃうんです。
私がすごく見習いたいと思ったことが、
ある全盲のご高齢の女性が
見えるか見えないかの位置にある歯を「白にしてほしい」と
何倍もする高価の実費治療にしていたことです。
歯医者さんは
「見えるか見えないかの位置なので保険治療でも良いと思いますよ」
と勧められていたのですね。
ですがその全盲の女性は
「でもせっかくだから白く綺麗にしてほしいわ」
と数千円くらいのものから10万近い歯にしてました。
もちろんお金に余裕のある方なのかもしれません。
でも
「見えない位置」でも、
自分には見えなくても、
美しさを追求するということに感動してしまったのです。
そういうのが一番おしゃれなのだな、
と。
心がおしゃれな人というのは一番素敵であると
心から感動しました。
見た目がおしゃれ、というだけでなく
「心がおしゃれ」ということを
改めて考えさせられました。
だから、
「その歳でそれって恥ずかしいくない?」
というは
あくまでも「見た目」だけでの判断。
でもそれって本当のおしゃれの意味をわかっていない気がする。
おしゃれって誰のためでも
「見た目」だけでするものでもないのだと。
自分の心を生き生きとさせるもの。
だから
人のおしゃれに対してあーどこーだ言う必要も
人からあーだこーだ言われる必要もない。
いくつになっても
自分のためにするもの。
心のためにするもの。
ということで
いくつになっても「カラコン」は卒業しなくても良いと思う
むしろ私は
ご高齢の素敵な女性が
老眼カラコンをつけて生き生きされていたら
「それ、どちらのカラコンですか」
って聞きたくなると思う(笑)
人生、楽しんだもんがち
おしゃれに年齢制限なんて必要ない、
そういう思いを忘れずにいたいと思います
P.S ここぞという時にサングラス代わりに購入したカラコンですが
まだ「ここぞ」という日が来ない