また、今日も、
『日本』
の記録をしておきたいと思います
今、「日本」について勉強しています。
知れば知るほど、
どんどん知りたくなります。
そこには
『真実』
がたくさんあるからです。
どこでどうなったかわかりませんが
←いや、若干、わかってますが
(笑)
昔ほど、
日本はきちんと評価されていたように思います。
知れば知るほど、
『サムライ魂』
に感動してしまいます
そういえば、
タイでは「日本兵とタイ人女性のロマンス
」の映画やドラマが
定番だそうですね
大人気だとか
私は、
なぜ、現在のように言われてしまうようになったのか
不思議に思いました。
昔ほど、
日本兵は評価がとても高いのに。。。。。
でも、
もしかすると、
「日本人が日本人を美化することもあるのではないか・・・」
と少し、冷静に見て見たりもした。
そんな時に、この動画を知りました。衝撃でした。
日本人の鑑(かがみ)だ 工藤俊作艦長の話
*消されてしまったので
「敵兵を救出せよ 【武士道】 敵兵イギリス兵422名を救助した日本海軍「雷」/You Tube」
と検索で出ると思います。
ですが、これですと後半部分は別になってしまいます。
上記の動画は大本のYou Tubuの方も、消されていました。
大切にしたい動画でした。(2007年、アンビリーバボーの番組?)
◎書籍「敵を救出せよ 英国兵422名を救助した駆遂艦〈雷〉艦長工藤艦長」恵 隆之助
◎書籍「マイ ラッキー ライフ」 フォール氏自伝
当時
「敵」であった人。
60年以上たった今でも
、「日本の武士道」が忘れられないでいる。
これだけで、
もう、すべてがわかった気がした。
そこにいた人たちの証言が、
もう「すべて」ではないか。
これ以上の真実が、あるのか?
「敵」さえも、感動させてしまうそのことが
すべてを物語っている気がします。
涙があふれました
もうひとつ、感動した記事があります。
新聞にこんな
パラオの話が載ったことがあるそうです。(以下、引用させていただきます)
遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
「あそこでみんな死んでいったんだ……」
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
やがて
戦況は日本に不利となり、
いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
日本の守備隊長のもとを訪れた。
自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
それを聞くなり隊長は
激高し叫んだという
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに……みせかけだったのか。
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した。
船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
しかし
船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。
その瞬間、彼は悟ったという。
あの言葉は、
自分達を救うためのものだったのだと……。
毎日ノンフィクション『サクラサクラ ベリリュー島洞窟戦』 船坂弘著(1967年)
「パラオの統治者である日本軍」としては、パラオ諸島の小さな島・ペリリュー島の
民間人を
“圧倒的不利な戦局”に巻き込んではならないと配慮したのだ。
そして船舶も乏しい中、空襲を避けて夜間に船を出し、
住民の全員をパラオ本島に
避難させたのである。
そして
日本軍はパラオを死守するために文字通り死を覚悟して戦った。
日本は圧倒的に不利だった。アメリカに制海権・制空権を掌握されている上に、
兵力14倍、航空機200倍以上、戦車100倍、重火砲1000倍という
歴然たる戦力差。しかしそれでもアメリカの上陸作戦史上最高の損害比率を
出させるほどに抵抗し、全く補給もなく73日間も守り通し、玉砕したのだ。
最期に『サクラ・サクラ』という電文だけを残して。
その戦いの甲斐あって最大激戦地・ペリリュー島での
民間人死傷者はゼロだった。
戦争後に島に戻った島民たちは、放置されていた夥しい数の
日本兵の
亡骸を泣きながら埋葬した。後にペリリュー島のオキヤマ・トヨミと
ショージ・シゲオが“ペリリュー島の玉砕戦”を、日本の国花・桜に託して
作った『ペ島の桜を讃える歌』は、今でも彼らに愛唱されているという。
後にペリリュー神社は青年神職南洋群島慰霊巡拝団やイサオ・シゲオ尊長ら
島民の手により
「すべて日本から運搬した材料を使って」再建された。
この神社の前には戦中は敵だったアメリカ太平洋艦隊司令官
チェスター・W・ミニッツの言葉でこんなことが書かれている。
「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。
あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。
此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶う、その心根を。」
ちなみにパラオに存在するこの神社は、
天照大神と戦死者一万余名の「護国の英霊」を御祭神とする神社である。
パラオ共和国大統領トミー・E・レメンゲサウ・ジュニアは、
敗戦から復興し
様々な分野において世界を牽引する力になっている今日の日本を称え、また、
戦時中のパラオ統治に今でも感謝し、パラオは世界で最も親日感情が高い国と言った。
そして当時を知るパラオの長老たちは、今でも日本をこう呼ぶという。
「内地」
と。
(~以上、「韓国はなぜ反日か?」から引用させていただきました~)
実は、つい最近、
「アンビリーバボー」という番組で
このパラオに行った日本兵の奥さま(現在98歳、宮崎県で現役の女医)が
当時、
結婚したばかりですぐ戦争に行ってしまったご主人さまと
手紙をやり取りしていて、
115通?のラブレター(確かでなくてすみません)を
見せてくださいました。
それは、だんだんと
戦争が不利になり死を覚悟した「遺書」のような内容に
変わっていきました。
そこには、「武士道」そのままの手紙がありました。
私にとって、すごくタイムリーな内容で驚きました。
ちょうど
上記のパラオの記事が頭から離れなくて、
ずっと心にあったからです。
戦死されてからもずっと
旦那様ただ一人を愛し続けているそうです。
まさに、
「ヤマトナデシコ」そのものだと思いました
もうひとつ、こんな記事 ↓
■「日本人になれる」と志願兵募集に殺到した台湾の青年たち
日本政府が台湾で最初に志願兵募集をしたのは昭和十六年であった。
これによって台湾人もやっと
日本国民になれると感嘆する者もいた。
第一次募集には、若者たちが
「殺到」した。
志願者が募集数の六百倍にも
のぼったのである。選考にもれた若者たちのなかには、血書をしたため、
台湾総督に嘆願する者もいた。
(黄文雄『中華思想の罠に嵌った日本』P110-111)
「タイ人女性と日本兵の恋」のドラマが
タイで大人気というもの (定番とか)
この動画や、これらのことだけでもわかる気がします。
女性を乱暴に扱っていたなら、
モテるわけがありません。ありえません。
私個人的な思いは、
過去は美化も卑下もするものではなく、
そこから学び、
同じ過ちを繰り返さないことだと信じています。
そりゃ、
歴史を知れば知るほど、
「納得いかん
」
ということも多々でてきますが
でもやっぱり1番大切なのは
過去に生きるのではなく、「今」を生きるということだと思います。
過去のせいにし、
過去に執着しては、「今」を生きられないからです。
忘れるのではなく、
感謝をして「同じ過ちを繰り返さない」ということが
反省の意味、
そして、すべてではないかと、私は思っています。
日本人であることを、誇りに思います。
そして、
日本を守って下さったことを
心から感謝したいと思います。
今日も、日本人として残しておきたいものを記録させていただきました