長屋茶房・天真庵

「押上」にある築60年の長屋を改装して
「長屋茶房・天真庵」を建築。
一階がカフェ、2階がギャラリー。

なるほど・ざ・よばい

2015-10-13 08:51:08 | Weblog

昨日は時間がなく、「よばい」の本の中身を紹介しなかった。

当たり前だけど、「よばい」があった時代は、夜が闇、つまり電球が普及する前

の話。電球が売りだされたころは、一個がサラリーマンの月給くらいの値段で、

電気屋はわざわざ家にでむいて電球をはめてくれてた時代。その前に、

そんな素敵な時代?があった。

と、いうことは畳のある部屋も少なく、ましていわんや目標の「むすめさん」の部屋には、

家族がいっしょに寝ていたり、もぐりこむ布団にも両親が寝てたりしたそうな。考えて

みたらあたり前田のクラッカーだ。

だから、うまく「むすめさん」の布団にたどりついても、上に重なってする、なんていうことに

なると布団にすきまができて、九州弁の「スースースー」になるので、横からスーと入れて、

声がでらんごと工夫?しながらむすぶ、というのがコツだったらしい。

不便な時代だったけど、今みたいに便利を追求した結果、大家族主義みたいな文化や、

家族の団欒から遠ざかって、核家族がすすみ、なんとなくささくれだった人間関係の坩堝の

中で寂しく生きていく、というような時代を迎えたのではなかろうかしらん。

昨日の「卵かけごはん」に、近くのシェアハスス&ゲストハウスの住民とゲストさんがきた。

「ものを持たないで、シェアーする」というのは、家財や洋服だけでなく、「生き方」にも

及んできていることを痛感する。傍らにいた同年輩の女子大の先生も、口をあんぐり

しながら、彼女たちの「今」を垣間見ながら、天真庵流玉かけごはんの洗礼をうけておられた。

家族ではない人らと、いっしょに暮らしていくコツは、どうもおのおのの「個」を上手に磨くことみたいだ。

これからの時代は「この花さくやひめ」かもなんばん。生活というのは、どんな場所に住んでいようが、

毎日出会ったり、仕事したり、趣味の世界でいっしょになったりする人たちとの「ふれあい」なのであって、

その人だけの物語ではないのだ。

今日は二階で「お仕覆の会」。そのシェアハウスは、正式名称ではない?けど「旧邸」という。

そこの手芸部の部長が先月からこの会に参加されている。その後は「金継ぎ教室」

絶滅危惧種みたいな「習いごと」を次の世代まで継ぐようなことが、天真庵の使命かもね。

明日明後日が「卒啄珈琲塾」&「無茶しぃの会」

今日から、渋谷の「炎色野」で久保さんの陶展。うちの器の9割が久保さんが作ってくれたものだ。

「一生もの」の器を探しにいかれてはいかが?一生といっても、多かれ少なかれ、みな折り返しだったり、

後半だったり、ゴングの前だったりすることに気付いていない。

ゴングといえば昨日は後楽園ホールに三迫ジムの福本くんの応援にいった。リングサイドの前から

二列目で、ぼくの席の前に三迫会長がいた。あの炎の男・輪島功一を世界チャンプにした人だ。

リングの上で裸ひとつで命をかける男たちをやさしそうな目線で観戦しておられる姿が印象的だった。

生きる死ぬの境界線で勝負している男たちは、だからこそやさしいのだ。いい試合だった。

メインイベントの「拳 四朗」くんは、これまで見てきたボクサーの誰よりも、「おぼこい」ボクサー。

でもリングにあがると、すごいファイトをする。そこにいなければ、誰もボクサーとは思えないないだろう。