昨日は一滴の会、つまり「お花のお稽古」だった。
あいにくの雨だったけど、雨もまた恵みの一滴でもある。
この恵みがなければ、この星に生きとし、生けるもの、
鳥も獣も虫や魚、草木やぼくら人間たちも、生きていくことができない。
颯爽と原田先生が、山口からやってきた。月に1度、山口の宇部から
わざわざ、出来の悪い(いいのもいる)弟子たちの指導に足を運んでくださる。
昨日は、白桃だ。
白桃は、桃のようなおしり、に象徴されるように女性的なイメージであり、
桃の節句になくてはならいものだ。しかし、花とはうらはらに、木そのものは
ごつごつとしていて、なかなか一筋縄では、うまくいけられないところがある。
そのごつごつとした枝の中から、女性らしく、しなやかな枝を見つけ、
無駄な枝を捨てて(刃物で切り落す)、真(しん)にする。
人間が生きていくには、しっかりした信念が真とならないと、うまくいかない
ように、花にとっても「真」というのが、とても大切だ。
真がきまると、それを「くばり」というもので、とめる。くばりは、桃の木で
細くてまっすぐなものを選び、それを寸胴(ずんどう)という花器の径の内側に
ぴったりVの字になるように、削る。これが、真を立てる、つまり人生を築いて
いく土台になる。地味な作業だし、人には見えない部分の作業だけど、
だからこそ、ここ、この土台をどうやって作るか、というのいは、とても意味深いし、
大事な部分である。
花屋さんから嫁いできた日は、田舎娘みたいだった桃が、艶ややか色香を感じさせる
ような真になって、堂々と寸胴の上に立つ。
真がきまったら、次は副(そえ)をつくる。野道の一本杉も、孤高でいいけれど、
やはり男に女があるように、夫に添遂げる妻のように、副というのは、どちらも
生かしたり、殺したりするものだ。だいたいうまくいっている会社も社長よりも
副社長のほうがえらかったり、できていたりする理屈と花の理屈もよく似て妙な
ところがある。真がしっかりとしていて、存在感があると、副は控えめながら、
凛としているのが絵になる、ということを昨日教えていただいた。
日本の習いごとは、昔から「修・破・離」(しゅはり)というのを根本にした。
修ー基本を学ぶ
破ー1度その基本から離れて見る
離ー基本を大事にしながら、自分のものをつくる
簡単にいうと、そんなことだろうか。
午前中の終わりに、原田先生が、年末に湯河原で切った竹の
一節に、小さな枝をくばりにして、桃をいけてくださった。
はさみの切れぐあいの妙か神の仕業なのか、その中のひと枝が
皮一枚で繋がっていて、そこに小さな桃のつぼみが、そそ、と
生き残った。青竹の青々としたところに、小さな命の一滴がたれ、
それを木庵禅師の掛軸の横に置いたら、「有我天真佛」(我に天真の佛有り)
と読んだ寒山詩を思い出した。
たまたま珈琲を飲みにきた2人の女性音楽家も、この不思議な世界を垣間見て、
弟子にさせてくれと、申し出た。
どこの世界も、師というものは、弟子が発見するものである。いい
師に出会えるかどうか、は、その人の問題なのだ。
ワカが天国にいって、空席になった花の席に、また縁ある人が座る。
あいにくの雨だったけど、雨もまた恵みの一滴でもある。
この恵みがなければ、この星に生きとし、生けるもの、
鳥も獣も虫や魚、草木やぼくら人間たちも、生きていくことができない。
颯爽と原田先生が、山口からやってきた。月に1度、山口の宇部から
わざわざ、出来の悪い(いいのもいる)弟子たちの指導に足を運んでくださる。
昨日は、白桃だ。
白桃は、桃のようなおしり、に象徴されるように女性的なイメージであり、
桃の節句になくてはならいものだ。しかし、花とはうらはらに、木そのものは
ごつごつとしていて、なかなか一筋縄では、うまくいけられないところがある。
そのごつごつとした枝の中から、女性らしく、しなやかな枝を見つけ、
無駄な枝を捨てて(刃物で切り落す)、真(しん)にする。
人間が生きていくには、しっかりした信念が真とならないと、うまくいかない
ように、花にとっても「真」というのが、とても大切だ。
真がきまると、それを「くばり」というもので、とめる。くばりは、桃の木で
細くてまっすぐなものを選び、それを寸胴(ずんどう)という花器の径の内側に
ぴったりVの字になるように、削る。これが、真を立てる、つまり人生を築いて
いく土台になる。地味な作業だし、人には見えない部分の作業だけど、
だからこそ、ここ、この土台をどうやって作るか、というのいは、とても意味深いし、
大事な部分である。
花屋さんから嫁いできた日は、田舎娘みたいだった桃が、艶ややか色香を感じさせる
ような真になって、堂々と寸胴の上に立つ。
真がきまったら、次は副(そえ)をつくる。野道の一本杉も、孤高でいいけれど、
やはり男に女があるように、夫に添遂げる妻のように、副というのは、どちらも
生かしたり、殺したりするものだ。だいたいうまくいっている会社も社長よりも
副社長のほうがえらかったり、できていたりする理屈と花の理屈もよく似て妙な
ところがある。真がしっかりとしていて、存在感があると、副は控えめながら、
凛としているのが絵になる、ということを昨日教えていただいた。
日本の習いごとは、昔から「修・破・離」(しゅはり)というのを根本にした。
修ー基本を学ぶ
破ー1度その基本から離れて見る
離ー基本を大事にしながら、自分のものをつくる
簡単にいうと、そんなことだろうか。
午前中の終わりに、原田先生が、年末に湯河原で切った竹の
一節に、小さな枝をくばりにして、桃をいけてくださった。
はさみの切れぐあいの妙か神の仕業なのか、その中のひと枝が
皮一枚で繋がっていて、そこに小さな桃のつぼみが、そそ、と
生き残った。青竹の青々としたところに、小さな命の一滴がたれ、
それを木庵禅師の掛軸の横に置いたら、「有我天真佛」(我に天真の佛有り)
と読んだ寒山詩を思い出した。
たまたま珈琲を飲みにきた2人の女性音楽家も、この不思議な世界を垣間見て、
弟子にさせてくれと、申し出た。
どこの世界も、師というものは、弟子が発見するものである。いい
師に出会えるかどうか、は、その人の問題なのだ。
ワカが天国にいって、空席になった花の席に、また縁ある人が座る。