長屋茶房・天真庵

「押上」にある築60年の長屋を改装して
「長屋茶房・天真庵」を建築。
一階がカフェ、2階がギャラリー。

修・破・離

2010-02-28 07:39:55 | Weblog
昨日は一滴の会、つまり「お花のお稽古」だった。
あいにくの雨だったけど、雨もまた恵みの一滴でもある。
この恵みがなければ、この星に生きとし、生けるもの、
鳥も獣も虫や魚、草木やぼくら人間たちも、生きていくことができない。

颯爽と原田先生が、山口からやってきた。月に1度、山口の宇部から
わざわざ、出来の悪い(いいのもいる)弟子たちの指導に足を運んでくださる。
昨日は、白桃だ。
白桃は、桃のようなおしり、に象徴されるように女性的なイメージであり、
桃の節句になくてはならいものだ。しかし、花とはうらはらに、木そのものは
ごつごつとしていて、なかなか一筋縄では、うまくいけられないところがある。

そのごつごつとした枝の中から、女性らしく、しなやかな枝を見つけ、
無駄な枝を捨てて(刃物で切り落す)、真(しん)にする。
人間が生きていくには、しっかりした信念が真とならないと、うまくいかない
ように、花にとっても「真」というのが、とても大切だ。
真がきまると、それを「くばり」というもので、とめる。くばりは、桃の木で
細くてまっすぐなものを選び、それを寸胴(ずんどう)という花器の径の内側に
ぴったりVの字になるように、削る。これが、真を立てる、つまり人生を築いて
いく土台になる。地味な作業だし、人には見えない部分の作業だけど、
だからこそ、ここ、この土台をどうやって作るか、というのいは、とても意味深いし、
大事な部分である。

花屋さんから嫁いできた日は、田舎娘みたいだった桃が、艶ややか色香を感じさせる
ような真になって、堂々と寸胴の上に立つ。
真がきまったら、次は副(そえ)をつくる。野道の一本杉も、孤高でいいけれど、
やはり男に女があるように、夫に添遂げる妻のように、副というのは、どちらも
生かしたり、殺したりするものだ。だいたいうまくいっている会社も社長よりも
副社長のほうがえらかったり、できていたりする理屈と花の理屈もよく似て妙な
ところがある。真がしっかりとしていて、存在感があると、副は控えめながら、
凛としているのが絵になる、ということを昨日教えていただいた。

日本の習いごとは、昔から「修・破・離」(しゅはり)というのを根本にした。
修ー基本を学ぶ
破ー1度その基本から離れて見る
離ー基本を大事にしながら、自分のものをつくる
簡単にいうと、そんなことだろうか。

午前中の終わりに、原田先生が、年末に湯河原で切った竹の
一節に、小さな枝をくばりにして、桃をいけてくださった。
はさみの切れぐあいの妙か神の仕業なのか、その中のひと枝が
皮一枚で繋がっていて、そこに小さな桃のつぼみが、そそ、と
生き残った。青竹の青々としたところに、小さな命の一滴がたれ、
それを木庵禅師の掛軸の横に置いたら、「有我天真佛」(我に天真の佛有り)
と読んだ寒山詩を思い出した。

たまたま珈琲を飲みにきた2人の女性音楽家も、この不思議な世界を垣間見て、
弟子にさせてくれと、申し出た。
どこの世界も、師というものは、弟子が発見するものである。いい
師に出会えるかどうか、は、その人の問題なのだ。
ワカが天国にいって、空席になった花の席に、また縁ある人が座る。

花のお稽古

2010-02-27 06:54:52 | Weblog
昨日は、ねんどの会だった。
女子たちは、それぞれのイメージする「おひなさま」を
つくった。小学校2年生で、二回目のみくちゃんが、ぶたの
おひなさまをつくった。おかあさんが迎えにくる時間まで、
集中して、お内裏様とお雛様を完成させた。すばらしいできだ。
人間の手、というのはほんとうに、いろいろな可能性をもっている。

昼に、神田で料理屋をやっている友人が弟子をふたりつれてやってきた。
彼は、ときどきお花の稽古にやってくる。
昨日は、カウンターの端っこに鎮座する石臼に興味を示し、しばらく
豆を挽いていた。いつものように、蕎麦を2人分平らげ、珈琲も自分で
挽いた「石臼手挽のほぼぶらじる」を2杯飲んでいった。
「自分たちの料理の締めにだす珈琲の可能性を見つけた」
と、目を輝かせて、かえっていった。
それぞれの世界に、それぞれの味とか、哲がある。それらが、曼荼羅の
ように繋がっていくようなそんなイメージが広がっていく。

今日は、桃を生ける予定だ。お花というのは、まさに曼荼羅の宇宙。

来週の金曜日、3月5日は、KAZUKO BABAのジャズライブ。
昨日電話がかかってきた。ワカが旅立ったことを伝える。
明日が、「東京マラソン」。一昨年には、ワカが4時間ちょっとで完走した。



旅人

2010-02-26 07:11:53 | Weblog
群馬の温泉まで、バスでいった。
いつもは車でいくのだが、こないだの雪が残って
いそうなので、八重洲からバスでいった。
少し時間があったので、八重洲から歩いて丸善までいって、
本を調達した。温泉にいって、温泉に入る以外は、酒を飲みながら
ただ本を読む、というくらい贅沢な時間はない。
八重洲もそうだけど、日本橋界隈も、「おいしい珈琲が飲める普通の喫茶店」
がない、というのは旅人にとっては、興醒めなことだ。
かといって、朝のビジネス街を散歩する気にもなれないので、どこにでもある
ようなカフェにいって、オレンジジュースを飲みながら、本を読んだ。

東京駅の売店で、新宿アカシアのロールキャベツシチューの弁当を調達して、バス
に乗り込む。平日だというのに、けっこう人がいる。
よくゴルフをやっていたころ運転した関越道を通って、呉越同舟みたいな感じ
のバスはいく。横の席にバスの中で携帯をするアホがいたので、途中で、一番
後の席に移った。

江戸時代に建った古色蒼然とした山の湯宿についた。雪も残っていて、
空気がひんやりとして、気持ちがいい。湯治場も兼ねているこの温泉宿は
昔から文人たちが、こよなく愛した宿でもある。さっそく一番古い元禄時代
にできた風呂に入った。うちのステンドグラスをやってくれたあいちゃんが
ここの風呂に入りながらデザインをきめた、というゆかりの風呂。
文人や芸術家たちにとって、いろいろ豊かな発想を施してきたやさしさみたいな
ものが感じられる湯である。自然の神さま、芸術の母のような神さまがいるような
場所だ。

帰りは、中之条までバスでいって、そこから上野行きの特急を使った。
名物のだるま弁当を食べながら、ビールを飲んでいると、旅人になった
気分が最高潮になった。上野駅界隈も、なりすぎるくらいきれいになって、
おもしろみがなくなったけど、東京駅と上野駅は、やはり昔から玄関口で
あり、旅人をあまた受け入れてきた場であることの変りない。
上野駅から、平井駅行きのバスにのって、帰ってきた。これも初めての経験。
バスの中から初めて、天真庵を見る。「こんな、何やっているか
わからない店に、よくみなきてくれるものだ」と関心することしきり。

今日は「ねんどの会」
明日は「お花のお稽古・一滴の会」だ。


英語で蕎麦会

2010-02-24 07:42:02 | Weblog
旧正月があけて、今年初めての「英語で蕎麦会」だった。
岩本先生は、昨年近所の長屋に北区から引っ越してきた。
独身なので、家財道具がほとんどなく、いつでもホームレスになれる
くらい身軽で、簡素だ。(これに限る)
何もないがらんとした部屋に、一枚絵が飾ってある。南條先生の
描いた「寒山拾得」だ。初めて天真庵にきて、その絵に、とりつかれた
ようになって、その絵を、月賦で買われた。けっして安い買物では
なかったと思うけど、「あるとき払い」「催促、利息なし」みたいな
条件で彼の手元に渡った。そして昨年末の支払で、借金がなくなったらしい。
少し無理したけど、気にいったものが、身のまわりにある生活というのは、
何ものにも変えがたい。

借金が終わったお祝いに、久保さんの「宝瓶」(ほうひん)をひとつ
さしあげた。それで毎日、玉露をいれて、長屋生活を満喫しているらしい。
英語で蕎麦会は、池袋時代は、岡倉天心の「茶の本」を勉強していた時期がある。
今のオバマ大統領の反体制派の運動も「茶会運動」と呼ばれているらしい。
日常茶飯なことだけど、「今日一日を、楽しい日」にするために、一杯の
お茶を静かにいただく、というのは、けっこうなことだ。

政治も経済も、どこみても生きづまり、ささくれだった人間関係や
腐りかけたリーダーシップに、溜息しかでないような毎日だが、
今日という自分の人生、そしてその始まりを、どういう「思い」
で過ごすか、というのは、これまでにまして、大事なことだと思う。

「喫茶去」(きっさこ)・・・「まあ、お茶でもめしあがれ」という禅の
教えの真髄が、こんな時代だからこそ、五臓六腑に染みわたる。

今日明日は連休。金曜日はねんどの会。
これから、群馬の山の中の温泉にいってくる。天真庵の
玄関に飾ってあるステンドグラスのモデルになった文人たちに
愛された不思議な温泉。


英語で蕎麦会

2010-02-23 07:25:52 | Weblog
最近はよくカメラをもった人が、界隈を
ブラブラしている。お店の中に入ってきても、
「瞬間」をいただき、みたいな形相をしている人が多い。
「カメラで店内を撮ってもいいですか?」と聞くマナーを
もっている人はまだますだけど、お客さんが食べたり飲んだり
している姿を平気で撮る人がいる。
先日は、カウンターから、椅子の上にカメラを置いて、テーブル
の方を撮ろうとした輩がいたので、少しきれかかって、
「それは盗撮ゆうんやで・・・」といって、かえってもらった。

礼儀礼節とか、難しいことをいいたくないけど、公共の場所では、
カメラとか携帯というのは、しないのが常識だと思う。

今日は「英語で蕎麦会」
明日・明後日は連休。

3月5日の「三丁目のJAZZ」
は、KAZUKO BABA (P) & 岸徹至 (B) pm7:00開場 7:30開演
いつものように、蕎麦会付で4000円。残りあと3席。

4月に予定していたNobieのジャズライブは、5月22日(金)に
なりました。





珈琲の樹

2010-02-22 07:25:45 | Weblog
今朝、「わぶ庵」の前をジョギングの途中によったら、
うちの内装をやってくれた中西くんが徹夜で、お店の
内装の仕上げをしていた。いよいよ明日保険所がきて、
通れば、明後日くらいからオープンになる。
店長になるなつき君も、ねむそうだったけど、元気に
作業を手伝っていた。
昼の名前が「珈琲の樹」になるそうだ。夜はまた店長がいて、
「ヨイドーレ」というのが夜のお店の名前らしい。
同じ空間が、昼と夜で、まったく異空間になるのがおもしろい。

びっくりするような低予算で、手創りのかふぇができあがる。
カウンターのランプシャードは、たけちゃんが、かんかんを
使って作ってくれた。原価はかからないけど、てまとひまと
愛情がこもっている。もちろん、テーブルもイスも、みんな
彼らが、自分でつくったものだ。
芸術家のアトリエで、珈琲を飲む・・・みたいな感覚だろうか・・?
京都の「イノダ」も最初は、創業者のアトリエで珈琲を飲む、
ところからスタートした。
いいスタートができそうな気がした。

京都といいば、祇園の「金瓢」で、「升たか作陶展」
をやっている。26日まで。
古門前通りという、骨董街にある素敵な空間。今日までは
升さんが、そこにいる。

明日は「英語で蕎麦会」
明後日、明々後日は、連休。

フンドで奮闘中

2010-02-21 07:21:44 | Weblog
朝からスカイツリーの写真を撮りにくるカメラマン
が多くなってきた。定期的に、同じ場所で撮る、という人が
多いので、自然と少しづつお客さんが多くなってくる。
商売も同じで、こつこつとまじめにやっていくと、少しづつ
お客さんが増えてくる。これからは、しばらく経済が斜陽下の
傾向があるので、横のつながりを大切にし、人間力を磨いて
いかないと、どんな商売であれ、ビジネスであれ、普通の生活で
あれ、滅びに至るのではなかろうか。

昨日は、お店を締めた後、「フンド」にいってきた。
新あづま通りにできた「ベジタリアンバー」だ。
ブラジル人のディエゴが、築地のヤッチャバで働いていて、
そこの新鮮な野菜を使って、料理をつくったり、フールーツで
カクテルをつくったりしてくれる。
ここのコーヒーは、ぼくがエスプレッソ用に焙煎してブレンド
したものだ。
ハートランドビールを飲みながら、野菜のてんぷらをただく。
ディエゴは、ブラジル人のふりをしている日本人みたいに、日本語
がうまいし、情感も豊だ。相棒の金内くんは、うちに花のお稽古
にきている好青年だ。彼がつくる自家製のいくらを使った「いくら丼」
は1度食べるとクセになる。

うち以上に、入りにくい店だけど、入ってみると楽しい店だ。
カウンターの中にある茶箪笥は、なかなか「たも」がいい具合だ。
手作りでお店を作る、というのは、ほんとうに楽しいものだ。
今週は、いよいよ「わぶ庵」もキラキラ商店街の入り口で開店する。
さきほどジョッギングの途中に前を通った。なんとなく、天真庵の
弟、みたいな感じがする店になりそうだ。

てあぶり

2010-02-20 07:10:42 | Weblog
陶器の手あぶりをお店には置いてある。
近くにあったお茶やさんが廃業された時に、くれたものだ。
中には「五徳」が灰の中に鎮座していて、そこにお湯をわかすヤカン
を置いたり、手をあぶったり、そのまま暖房になったり、美人がよってきて、
話ができたり・・・・徳が5つ以上ある。でもほんとうに昔の人は、
うまいこといったものだ。でも今は、そんな古人の智恵で、この厳しい時代、
きっとしばらく続くこのたいへんな時代を、どうにか楽しみながら、生きて
いかなければいけない。なあに、日本人というのは、縄文のころから、きっと
万年貧乏で、明るくその日暮らしをしてきた民族なのだ。

石臼を使っていると、極力機械的なものを使いたくなくなる。
昨日は、その手あぶりに、岩手の炭をいっぱい起して、その上に
手回しの焙煎機をおいて、コーヒー豆を焙煎してみた。
ほんとうの「炭火焙煎」だ。ガスでやる時よりも、時間と手間が
かかるが、遠赤効果ばつぐんの炭で焼いた豆は、ほんとうに美味い。
しかも焼きたての豆を、石臼に入れると、バリバリという音が、
甲高く、コーヒー豆のアロマの香りが部屋中に漂って、とても
幸せな気分になる。
昨日と同じ写真だけど、これは、焙煎した後に、まだ煙が部屋に
充満している景色だ。この中で、焙煎したて、石臼で挽きたての豆で
抽出した珈琲を飲む。こんな幸せな朝はない。

夜には、五徳に鉄瓶をのせ、そこに備前か設楽の徳利を
入れて、それを斑唐津で飲んだりすると、最高だ。
酒飲みのことを、左利きという。お金がなくても、
徳のある人は、その徳を利かせて、「まあ、先輩一杯・・」
なんてことをやると、「じゃ、君も」と、お酒にありつける。
「徳利」というのも、うまいことつけた名前だ。

昨日は「スケッチの会」だった。
「すいとん」をつくった。
鶏のつくねを、たまねぎをすって、片栗と黄身と入れて手でこねてつくる。
蕎麦粉をぬるま湯を入れて、手でこねて、しばらくねかす。
鍋に水と同量の酒をいれ、そこにささがきごぼうとか、季節の野菜なんかを
入れ醤油と塩で味を調える。そして、つくねと、そばのすいとんを、スプーンで鍋に、ほりこんで、テーブルの上に出すと、その周りの人たちの顔が、満面笑みの連鎖。

煎り番茶が、血糖値を下げる

2010-02-19 07:06:57 | Weblog
昨日は休みだった。
銀座の隠れ家のような蕎麦屋さんで、玉子焼きなどを
酒肴に、ぬる燗を飲みながら、至福の時を過ごした。
このお店の玉子焼きは、蕎麦屋の、というよりは、すし屋
の玉子焼きのように、少し甘めだけど、疲れたときなど、
これを食しながら、辛口のお酒を飲むと元気になる。
飲んだ勢いで、路地裏の骨董やを覗いてみると、主人が
箱から炉屏(ろびょう)を出していた。女桑の風合いがよく、
網代がいい味を醸し出している。「いい炉屏ですね」
と声をかけると、「これからネットのオークションにだそうと
思っている」というので、「いくらで?」と聞いたら、なんとか
財布に入っているので間にあいそうだった?ので、買った。
今週末は、天真庵の二階に飾ってみるとしよう。
またいつものように、スパアンピンになった。でもこころは
あったかいし、ゆたか、になるから、不思議だ。

それから銀座線で、表参道に降りる。青山ブックセンターで
本をどさっと買って(ブックカードで支払う)歩いていたら、酒屋さんに、花垣の仕込み水を売っていたので、それを買い、水を補給しながら、ヒルズの裏に
ある、これまた隠れ家のような茶室に入る。看板もなにもないドア
なので、道行く人たちには、そのドアの向こうにある不思議な世界を
垣間見ることはできない。

お店では、毎日煎茶や玉露を入れている。昨日は、「煎り番茶」の
お稽古をした。というより、先にきていた同志の女性にリクエスト
されたので、それをやってみた。
簡単にいうと、「ほうろく」という道具を使って少し大きめのよりの
あまい番茶を煎るのだ。手で珈琲豆を焙煎する要領ににている。
肘から先をやわらく使わないと、疲れる。それと、茶葉から常時一定の
煙がでている、というのがベスト。
家でやる場合は、フライパンでやってもかまわない。
賞味期限がきれていても、そのひと手間で、生き返る。
「自分も賞味期限」がきたと思っている人も、煎り番茶を
飲めば、期限内にもどることができる?できない場合もある!。

さて、番茶には「ポリサッカライト」と効能成分があり、今たいへん注目されている。ポリサッカライトは一番茶よりも番茶に多く含まれているらしく、体内にあるインスリンと同じ働きをするというこ。つまり血糖値を下げる効能や血圧を下げる効能があるのだ。またダイエットのお茶としても注目されているのだ。
京都あたりの気のきいた料理屋にいくと、この煎り番茶がいい塩梅ででてくるものだ。

今日は「スケッチの会」
わかなさんが、颯爽と、いろいろな季節のくだものや、風物を
もってやってくる日。




これが珈琲の石臼だ!

2010-02-18 08:24:06 | Weblog
新しいタワーが300mを越したらしい。
観光客も、急増している、という今朝の朝刊の記事。
昨日も「東京に長く住んでいるけど、押上に初めてきました」
という人がいた。偶然、大学の後輩も珈琲を飲みにきて「ひょっとしたら、東京に
就職するかもしれません」とのこと。ほんまに関西の人、とくに京都の人には
縁が深い。

昨日、珈琲の石臼が完成した。また朝思いついて、SPICE CAFEの
お父さんの工房へチャリンコに、石臼を積んでもっていく。
「この柄を、石臼につけれませんか?」と、提案したら、また気持ちよく
「難しいけど、おもしろいね」ということになった。
天真庵の二階には、寒山拾得(かんざん・じゅっとく)の絵が飾られている。いうまでもなく、寒山は文殊菩薩、拾得は普賢菩薩の化身だ。その絵を描いたのが、四国の南條観山画伯
だ。彼の家で代々使われていた石臼を蕎麦を打ち始めた記念に、譲りうけた。
二階へあがる階段のところに、墓石でつくったワインセラー(墓石に、穴をあけたもの。)
があり、その上に鎮座している。その代々使われてきた石臼の柄を、今回の珈琲の石臼
に、取り付ける、というのがテーマ。

さっそく、長さや形のバランスを考え、どこにつけるか、ということを説明しながら、
木の匠が、黙々と仕事を始めた。こちらも興味津々と、その作業を追うように、
うしろについてまわる。木造の作業場は寒いので、「どうぞ、ストーブの前で
座ってまっていてください」といわれるけど、いっしょに体を動かさないと、落ち着かない。いろいろな道具を使って、柄に2cm5mm四方の穴が開いた。
そして、「木殺し」という作業。つまり石臼に着いている木を、かなづちでうって、
そこに古い木でできた柄を入れ、そこに水をふくませて、ふたつの木を、頑丈にしめる、
という昔からある手法だ。
鑿(のみ)の頭には、丸い鉄のワッカがはまってあるきえど、それも「木殺し」
でできていることを、匠に教わった。
匠もときどき天真庵で酒を飲まれる。昔から酒飲みのことを「左利き」とか「左党」
とかいう。それは、大工が鑿をもつのが左手、ということから、鑿と飲みを、
かけた洒落からきている。
♪私の私の彼は・・・ひだりきき~
のそれとは、意味が違うけど・・

今日は休み。朝から雪が降っている。
この一週間は、今までの「ほぼブラジル」を、この石臼で
挽いて、力の入れ方、スピード、豆の入れる量などを、調整してきた。
今日は、焙煎をかえて、この石臼にあう「ほぼぶらじる」を
作ってみようと、朝一番に店にいって、焙煎をしてみた。
「道具」を変えると、人生が変わってくる。
茶道・書道・華道・・・道具というのは、道が具わったものだ。匠たちと
それを使う人との心の交流があって、繋がってきた「道」みたいなものだ。
珈琲道というのがあるかないか知らないが、確実に新しい道の出発点にたった、
そんな気がする。今日焙煎した珈琲豆をこの石臼でひいて、久保さんの黄瀬戸の
珈琲かっぷで飲みながら、降りしきる雪を見ながら、喫茶去。
こんな幸せな朝はない。こんな幸せな時間が、静かに優美に広がっていくイメージ
を雪景色の中に見た。 感謝。